碑文・墓

碑文・墓

クリ・カーンの墓からクトゥブ・ミナールを眺められます。

17世紀に建てられたムガール廷臣クリ・カーンの墓は、植民地時代に英国人の別荘として造り替えられました。

颯爽とした外観が昔のままであれかしと望むものです。

イスラム中世宮廷武人たちは、欧州からの植民地主義者たちが、自分たちの住処を、別荘にされる、とは思っていなかった、と思います。

ギャースッディーン・トゥグルクの墓

ギャースッディーン・トゥグルク(?-1325)の墓。

父はトルコ系イスラム教徒、母はヒンドゥー教徒であったと言われています。

ハルジ―朝を倒し、トゥグルク朝を創始(1320)。

墳墓の外壁に傾斜があります。

14世紀のモロッコ人、イブン・バットゥータの旅の記録には、彼、ギャースッディーン・トゥグルクは、インド北方から攻めて来たモンゴル系民族と勇猛に戦った武将、と言う記録がある、と言います。

彼自身も北方系出自ですから、北インドの覇権を巡って、多くの民族が北インドで戦った時代がありました。

文豪トルストイ

ガンディーとロシアの文豪トルストイは書簡で政治の在り方に関して意見を交わしていました。

トルストイ像はデリーの町中に立っています。

ガンディーとトルストイは、理想を打ち立てる面に置いて、共通の大きな世界観に基づく、文化文明的理解基盤が共有されていたと思います。

ガンディー座像

アーメダバードにあるガンディー座像。

ここから、塩の行進が始まりました。

暴力集団に対する、非暴力抵抗の本当の強さを知らしめたガンディーの人々への強い働きかけ。

タージ・マハル

言わずと知れたタージ・マハールは斜め下から見上げるのも良いものです。

第五代ムガール帝国皇帝シャー・ジャハーンが、愛妃ムムターズ・マハールのために造らせたお墓で、1632年から1653年迄の年月を建設に費やしたとの事。ペルシャ、トルコ、インドの建築様式が混じっていると言われています。

巨大なモニュメントを建造する費用が、大きな帝国を維持する財政に良からぬ影響を与え、やがて、帝国凋落の運命の先駆けとなった、と言う面があり、これが、歴史の転換への発火点と言う皮肉もある、と感じます。

Azim Khanの墓

Azim Khanの墓。

ムガール帝国第三代皇帝アクバル(1542-1605)と第四代皇帝ジャハーンギール(1569-1617)に仕えた勇猛な将軍。

しかし、スフィーの導きで、後半生は敬虔な托鉢僧となりました。

写真は険しい丘の上にあるAzim Khanの住いでありお墓でもあります。

緑の木立の彼方にクトゥブ・ミナールが見えます。

石段を静かに昇り詰め、石造りの堂の中で、一息つくと、堂の窓外に緑の鬱蒼とした低木の森が伸びており、それを少し上からずーと見晴らせます。

南デリーには、緑の一角が多いです。

アショカ王碑文

アショカ王碑文。

ニュー・デリー駅からオート三輪で 15分程の所に14世紀のトルコ系王朝君主が作ったフィールーズ・シャー・コトラ要塞跡があります。

その一角に紀元前に作られた佛教を奉じたアショカ王の碑文があります。

この碑文の古代文字を解読したのはイギリス人であり、時は、19世紀であった、と言う点。

時代を超えた価値の温存と読み解きの精神が感動的である、と21世紀の今、感じます。

屋上へ登る石組は決して上り易くはありませんが、一息ついて、上に立って眺める塔周辺の一望は、5世紀の時空の変容は何であるのか、考えさせられます。

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