シク教徒の分離独立運動③:カリスタン運動とビンドランワレー

シク教徒の分離独立運動③:カリスタン運動とビンドランワレー

前回の記事では、パンジャーブ州分割を達成するまでの、シク教徒の動きを追いました。

この成功体験によって、シク教徒はさらなる政治的要求を活発化させていきます。そうした時に、インド国外で、シク教徒の国建国の運動「カリスタン運動」が始まります

今回は「カリスタン運動」と、その「カリスタン運動」に乗って政治的要求をした、シク教過激派のカリスマ的指導者といわれるビンドランワレーを中心に、パンジャーブ州の動きをみていきます。

1.カリスタン運動のはじまり

カリスタン(Khalistan)運動は1970年、ロンドン在住のシク教徒たち約20人が記者会見を開き、シク教徒のための国家「カリスタン」の建国を求めたのが始まりとされます。しかし当時、この要求をしたシク教徒たちは狂言扱いをされ、周囲のシク教徒から白い目で見られることになったといわれています。

その翌年、前年の会見に協力したイギリス在住のシク教指導者、ジャグジッド・シン・チョーハン(Jagjit Singh Chohan)がパキスタンに招待されます。そこで彼は、カリスタン建国を求める講演を行い、パキスタンで大きく報道され、それを受け、インド国内でも報道されることになりました。

そして同年8月、彼はニューヨークタイムズに「カリスタン建国」の広告を出し、世界的に注目を集め始めることになります。その後、海外在住のシク教徒から数百万ドルの寄付金を集めることに成功し、海外からパンジャーブ州のシク教徒を支援することになります。

こうしたチョーハンの活動に対し、インド政府は国家分裂扇動などの罪で起訴しています。

2.ビンドランワレー:過激化するシク教徒のカリスマ指導者

1960年代の「緑の革命」を経て、パンジャーブ州で富裕層が増えたシク教徒は、政府の資本投資の少なさや、工業化の遅れ、ヒンドゥー教徒の流入によるシク教徒の人口割合の減少など、不満を溜め込む状況となっていきます。また、シク教徒の富裕層の増加と同時に、貧困に苦しむ層も生まれ、都市部の生活の変化がシク教コミュニティにも及び、過激な思想をもつシク教グループが登場する背景となりました。

1970年代半ばまでは、パンジャーブ州内のシク教徒による大きな暴動は起きていませんが、1966年の州分割の成功体験や、政府への不満が大きく溜まっていく期間だったといえます。また、パンジャーブ州の政治において、アカーリー・ダルと国民会議派はことごとく対立し、与党であるアカーリー・ダルは思い通りの政治ができないため、不満は募り、先鋭的な主張をする傾向になっていきました。

そして70年台後半のビンドランワレーの登場で、不穏な空気が一気に流れ始めます。

2-1.ビンドランワレー

ジャーニル・シン・ビンドランワレー(Janil Singh Bhindranwale, 1947~1984)は、シク教原理主義過激派のカリスマ的指導者です。1970年代末、ビンドランワレーは、パンジャーブ州のシク教徒の自治権拡大要求運動の中で、指導力を発揮し、シク教徒を運動の過激化へと扇動します。

さらに、インド国外で注目を集めていたカリスタン運動を取り入れ、分離独立を主張し、シク教徒穏健派や、ヒンドゥー教徒に対するテロ行為を主導しました。ビンドランワレーは、シク教寺院を運動の拠点にし、テロをはじめとした活動を活発化させていきます。

当初、暴動の扇動や、ヒンドゥー教著名人の暗殺を主導したビンドランワレーに対し、シク教徒の宗教政党であるアカーリー・ダルは批判的でした。しかしアカーリー・ダルは、シク教の自治権拡大を目指し、政府や国民会議派と対話を続けてきましたが、状況は行き詰まっていました。そんな中あらわれたビンドランワレーの影響力の高まりから、アカーリー・ダルは、彼と共闘関係を結ぶことになります。

2-2.ダラム・ユド・モルチャ

そして1982年、ダラム・ユド・モルチャ(Dharam Yudh Morcha)という宗教闘争グループを、ビンドランワレーとアカーリー・ダルは立ち上げます。このグループの目的は、主にイギリスなどで展開されていたシク教徒の国、「カリスタン」の建国です。海外で一定の支持や資金集めに成功していた「カリスタン運動」に目を付け、自身たちの活動に利用する形となりました。

ビンドランワレーは、カリスタン建国の達成まで、自身の活動を継続すると宣言をしており、実質、テロ継続宣言として、インド政府には捉えられました。彼のカリスマ的扇動により、インド政府に不満を持っていた数多くのシク教徒が、運動に参加したといいます。

従来のアカーリー・ダルは、シク教徒をインド人であると公式に宣言していましたが、ビンドランワレーと組むということは、それを覆したとインド政府は受け止めます

2-3.過激派の暴力行為

ダラム・ユド・モルチャ発足後、過激派の暴力行為はより活発となり、25,000人以上シク教徒が逮捕されました。パンジャーブ州知事の暗殺未遂や、2回のインディアン航空のハイジャックが短期間に起きています。

ビンドランワレー支持者による殺人も、8月以降多発しています。彼が殺される196月までに、支持者によって410人が殺害されました。そのうち1984年1月から6月までの殺人件数は298人と、1984年に入り、より過激化していったことがわかります。

1983年10月、パンジャーブ州は多くのテロ行為が起こる混乱の中、非常事態宣言が出されます。ビンドランワレーをはじめ、テロ行為を行うものたちが、シク教聖地ゴールデンテンプルに潜んでいることを政府はつかんでいましたが、当時の警察は反発を恐れ、踏み込むことができなかったといいます。

そして過激派のテロ行為が激しさを極める中、1984年6月、ビンドランワレー一派の殲滅(せんめつ)を図る「ブルースター作戦」が決行されます。

3.シク教徒の独立運動③:カリスタン運動とビンドランワレーのまとめ

ビンドランワレーというカリスマ的指導者の登場が、当時のパンジャーブ社会をより混沌とさせたようです。同じシク教徒でも、彼を諫める言動をしたものは容赦なく殺したという話もあり、当時のシク教社会も緊張に包まれていたことがわかります。

次回の記事では、ビンドランワレーが占拠していたシク教聖地、ゴールデンテンプルの解放を狙う軍事作戦、「ブルースター作戦」の実行を中心に見ていきます。この作戦は多くの犠牲者を出し、聖地ゴールデンテンプルの破壊に繋がったため、シク教徒の反発を生み、後のインディラ・ガンディー暗殺のきっかけとなりました。

BlogMuraFC2BlogRanking

VISITORS HERE:2,218, HOLI GREEN TOTAL VIEWS : 1,160,935

Previous(down)/ Next(up)
首相のインディラ・ガンディーによって決定されています。
シク教徒が、強い政治意識を持ち始めます。