シク教徒の分離独立運動②:パンジャーブ州分割までの動き

シク教徒の分離独立運動②:パンジャーブ州分割までの動き

前回は、独立当初のインドのシク教徒の動きを解説しました。

従来はマジョリティであるヒンドゥー教徒と折り合いをつけ、穏健な社会活動を営んできたシク教徒が、パキスタン分離独立後の、パンジャーブ州における変動により、強い政治意識を持ち始めます。

今回は、独立後活発化していくシク教のための州建設を求めた運動から、1966年のパンジャーブ州分割までを追っていきます。シク教徒の運動を主導した政党アカーリー・ダル(Akali Dal)とその運動、パンジャービー・スバ(Punjabi Suba)運動を中心にみていきます。

1.アカーリー・ダル

アカーリー・ダルは、シク教徒を基盤とする、主にパンジャーブ州で活動をする、1921年に創設された地域政党で、「不滅党」を意味します。

当初、反英運動やシク教の寺院改革運動を錦に創設されましたが、その後、ムスリムのパキスタン分離独立におけるパンジャーブ地方の分割と、コミュナリズムに基づく暴動は、シク教徒としてのアイデンティティを刺激し、同党への支持が広がりました。

インド独立の際は、インド社会で生きる選択をし、多くのシク教徒は穏健な道を選びましたが、その後の政府の政策によって、その風向きは変わっていきます。インド独立後は、シク教徒の州を作り、その先にシク教徒の国家建設までを見据えた運動、パンジャービー・スバ運動を率い、政府と衝突を繰り返していきます。

こうした活動は、1966年のパンジャーブ州の分割に繋がることになります。

2.パンジャービー・スバ運動

パンジャービー・スバ運動は、パンジャーブ地方に、シク教徒のための自治州の設置を求める運動です。

パンジャーブ州の、シク教徒のための地域政党アカーリー・ダルによって、1948年4月に提起され始まった運動で、この運動の先には「シク教徒の国家」建設を最終目標としています。

2-1.パンジャービー・スバ運動の始まり

独立当初のインド国家という形は、イギリスが作ったもので、それ以前のインド亜大陸には、同様な国の形は存在したことがなかったとの認識が一般的でした。そのため、ムスリムのパキスタンといった考えが生まれ、シク教徒でも同様の考えをもつ人々が出てくるのも、当時の社会では仕方のないことでした。

パキスタンの分離独立の際に、多くのムスリムがパキスタンに移住したため、シク教徒はインドのパンジャーブ州において、社会政治的に初めてマジョリティとなった地域が生まれました。

イギリスからの独立当初、シク教徒シク教徒による自治州の設置を要求しましたが、インド政府は憲法で政教分離を定めていることを理由に、拒否しています。インドの州編成は言語を基になされているため、また政教分離を定めた憲法の建付けもあり、シク教徒の要求する、宗教を理由にパンジャーブ地方を分けるという選択肢はなかった、ということです。

従来はマイノリティの立場であったため、自身の要求を声高に主張することは少なかったシク教徒ですが、マジョリティの地域が生まれて以降、政治的立場をアピールするようになっていきます。パンジャーブ州には13の選挙区があり、独立後の選挙では、7地域でシク教が過半数を占め、残り6地域がヒンドゥーが過半数を占めるという結果になりました。シク教徒が過半数を占めた地域では、1948年後半から1949年にかけて、アカーリー・ダル指導のもと、パンジャービー・スバ運動が展開されます。

同運動は活発化し、警察との衝突も起きたため、パンジャーブ州は混乱したといいます。この混乱を治めるために、ヒンドゥー・シク両者の代表が話し合い、パンジャーブ州の内部をパンジャーブ語圏(シク教)とヒンディー語圏に分類することが決まりました。これにより、多くのシク教徒パンジャーブ語圏に移動し、ヒンドゥー教徒もヒンディー語圏に移動したため、両者の分断は進むこととなります。

アカーリー・ダルは、パンジャーブ州内部の語圏による「分割」を成功体験と捉え、自治州の要求が勢いずくことになり、シク教とヒンドゥー教の対立関係は続いていきます。

2-2.1955年~

パンジャービー・スバ運動の要求は、政府によって無視され続け、衝突も散発的に起きたため、パンジャーブ州における混乱は続きました。そして1955年の州議会選挙では、アカーリー・ダルが圧勝し、シク教徒の士気はますます上がることとなり、直後、再び衝突が起きています。この衝突により、1000人以上のアカーリー・ダルの運動員と指導者が逮捕され、シク教徒の反発はさらに広がりました。

シク教徒とヒンドゥー教徒の対立が緩和することなく、混乱が続いていた1955年7月、政府の警察隊は、シク教徒聖地であるに立ち入り、抵抗するシク教徒を弾圧します。これにより200人以上が殺害され、数千人の負傷者と2000人以上の逮捕者を出しました。この事件へのシク教徒の反発は凄まじく、シク教徒たちはパンジャーブ各地で10万人に上る抗議のデモを行い、政府は圧迫されたため、政府は逮捕者の釈放などの対応を迫られます。

その後は、局地的な衝突はありましたが、死者を出すような大きな衝突が起きることなく、シク教徒と政府の対話は続けられていきます。

2-3.緑の革命後のシク教徒の変化と不満

1960年代以降、インドで「緑の革命」という、農業生産が飛躍的に高まる技術革新が起き、パンジャーブ州も大きな成功をおさめます。

パンジャーブ州の農家の圧倒的多数はシク教徒で、多くの富裕農が出現し、経済的にもシク教徒の発言力は増していくことになります。パンジャーブ州は農業に強く、農家の多数がシク教徒であったため、アカーリー・ダルは、宗教政党という側面と、農民の利害の代弁者という2つの側面をもつことになります。

以下、「緑の革命」以降の、シク教徒の不満の種と要求をみてみましょう。

  1. 豊かとなったパンジャーブ州への、ヒンドゥー教徒の移民が増え、同州のシク教徒の人口割合が減少したこと
  2. パンジャーブ州はインドの食糧供給基地となったが、灌漑設備などへの政府の投資は少なく、工業化も遅れていた
  3. インド軍での、パンジャーブ出身のシク教徒の割合を減らされた
  4. 政府が買入する農作物の価格上昇の要求
  5. 事業や投資に失敗したシク教徒貧困層も生まれ、社会への不満を蓄積していき、後に活発化する過激派参加の要因となる

こうした不満は、アカーリー・ダルによるパンジャービー・スバ運動の活発化の後押しとなっていきました。

2-4.1966年パンジャーブ州分割

1966年、従来から続いてきたアカーリー・ダルと政府の話し合いの結果、インディラ・ガンディー政権は、シク教徒が多く暮らすパンジャーブ語圏をそのままパンジャーブ州、ヒンディー語圏をハリヤナ州と分割しました。その結果、パンジャーブ州の人口の6割シク教徒となります。

しかし、アカーリー・ダル単独でパンジャーブ州の政権与党となることは難しかったため、連立政権を強いられることとなりました。※

一連の政府の「妥協」はシク教に歓迎されましたが、さらなる要求がされていくことになります。シク教のマジョリティの州の建設は達成され、次の目標は「シク教の国家建設」となっていきます。

3.シク教の分離独立運動②:パンジャービー・スバ運動のまとめ

独立後のパンジャーブ州のシク教徒は、政治経済的影響力の拡大に伴い、自治州を要求し、パンジャーブ州の分割に成功します。こうした成功体験が、さらなる要求、シク教の国家建設に繋がっていきます。

パンジャービー・スバ運動が、自治州の先に、国家建設まで捉えていたとされる中、こうした妥協がインド政府の対応として正解だったのか、疑問に感じることはあります。

次回の記事では、パンジャーブ州分割後、インド国外で発表されたシク教の国「カリスタン」建国を求める運動と、70年台後半から登場する、シク教過激派のカリスマ指導者ビンドランワレーを中心に、当時のパンジャーブ社会をみていきます。


※人口の6割がシク教徒なのに、与党になるのが難しかったのは、なぜ?

シク教徒でも、会議派やその他の政党に票を入れる人は一定数いるので、ということもあったようです。日本でいう自民党一強は嫌だから、ここに入れておこう、みたいな人も多いのではないでしょうか。シク至上主義みたいになると、普通のシク教にとっても怖いと思います。

BlogMuraFC2BlogRanking

VISITORS HERE:3,256, HOLI GREEN TOTAL VIEWS : 3,507,560

Previous(down)/ Next(up)
インド国外で、シク教徒の国建国の運動「カリスタン運動」が始まります。
武装化、過激化する運動員が増え、多くのテロを誘発するような動きとなっていきます。