シク教徒の分離独立運動①:運動の起こりと独立当初のインド

シク教徒の分離独立運動①:運動の起こりと独立当初のインド

1970年代後半、パンジャーブ州で展開された、シク教徒の国の建国を目指す「」をご存じでしょうか。

独立当初は比較的穏健であった、シク教徒のこの運動は、70年代に入り、シク教徒の不満が高まるにつれ、武装化、過激化する運動員が増え、多くのテロを誘発するような動きとなっていきます。

それに対し、インド政府はパンジャーブ州へ国の軍隊を派遣し、過激派を鎮圧しようとするなど、国の動きも激しくなります。

そして反発したシク教徒によって、インディラ・ガンディーが暗殺される事件が起きてしまいます。激怒したヒンドゥー教徒は暴徒と化し、数千人のシク教徒虐殺が起きてしまいました。

今回から5回に分けて、この悲惨な事態を招いた「シク教徒の国家建設」運動の推移をみていきます。まずは今回、独立当初のシク教徒がおかれた状況を中心にみていきます。

1.インド独立当時の社会とシク教徒

イギリス植民地下のインドでは、イギリスの宗教間の対立を煽る分断統治政策によって、ヒンドゥー教徒、シク教徒など、多くの宗教に基づくナショナリズム運動が出現しました。多くのムスリムやシク教徒は、こうした運動で大きな宗教コミュニティとしての国を望み、その境界線としての国境を求める運動を繰り広げました。

特にムスリムは、イギリス統治下において、イギリスへの反発から植民地機構への参入が全体として遅れたため、経済的・社会的に苦しい立場に置かれることが多かったといいます。そのため、ムスリムたちは自身たちが不当な扱いを受けているとして団結し、独立へ向けたうねりを形成していきました。

こうしたムスリムの激しい運動の結果、多数の犠牲者を伴う暴動が起こるなど、大きな混乱も起きましたが、パキスタンの分離独立が達成されます。

パンジャーブ地方の人口動態としては、多くの地域でヒンドゥー教徒、またはムスリムが多数派を占めており、シク教が多数派(41.6%)を占めている地域はルディアナ地区というエリアだけだったといいます。

シク教の開祖であるナーナクは、パキスタンのラホール生まれで、パンジャーブ地方はナーナクが布教活動を行った土地として知られており、他の地域に比べ多くのシク教が暮らしていました。

また、パンジャーブ地方にはシク王国(1801~1849)が建設されており、シク教徒にとって歴史的に重要な土地であることがわかります。

1930年代後半から、ムスリムの分離独立運動は激しくなり、シク教の指導者たちは、ムスリムの分離独立の成功を意識するようになりました。

インド国内のこうした動きの中で、一部シク教徒も、シク教徒のための国家建設を主張し、「シク教徒パンジャーブに属し、パンジャーブシク教徒に属す」という語をスローガンとしました。かれらは、パキスタンの分離独立の影に、シク教徒が隠れてしまうことを恐れため、シク教の分離独立運動に賛同するシク教徒も一定数おり、それなりの盛り上がりをみせたといいます。

この分離独立は、パンジャーブ地方全域を指すものではなく、パキスタンのラホールとその周辺の地域を、シク教徒の国として分離独立するというものでした。しかし、パンジャーブ州をはじめ、インド国内のシク教徒の人口は少なく、「シク教徒の国家建設」運動へのシク教全体の動きは、イスラムに比べると熱を帯びた者にはなりませんでした。その実現は厳しいと、現実的に捉える人が多かったようです。

そして、イギリスからの独立の際、歴史的にヒンドゥー教徒とシク教徒の対立が激化したことがなく、両者の関係はうまくいっていたため、シク教徒はインド側への編入を選びました。当時のシク教徒は全体として、分離独立よりも、ヒンドゥー教徒とは異なるアイデンティティをもつシク教徒であることをインド側に認めさせた上で、シク教徒としてインドで平和裏に過ごすことを選択したといえます。

分離独立に向けたムスリムの動きの過程で、約4000人が殺されたカルカッタの虐殺などを見て、ムスリムよりもマイノリティであるシク教徒は、独立運動によるシク教徒への厳しい弾圧へと繋がることを恐れたのかもしれません。そのため、独立後のインドにおけるシク教徒の要求は、シク教徒の自治州、シク教徒がマジョリティである州の建設からスタートします。

2.パキスタン分離独立とパンジャーブ地方とシク教徒

19、イギリスの植民地下にあったインドは、パキスタンとインドという形で分離独立をします。

パンジャーブ州も、インドとパキスタンの間で分割されることとなります。概してムスリムの多い地域はパキスタンとして、ヒンドゥー教徒の多い地域はインドとして分けられました。

その際、インド側のパンジャーブ地方にいた多くのムスリムはパキスタン側に、パキスタン側のパンジャーブ地方にいたヒンドゥー教徒とシク教徒の多くがインドへ、移住することになりました。インド国内のパンジャーブ州へは、パキスタンから脱出したシク教徒が集まり、その結果、シク教徒の人口の割合が急激に増加します。そしてシク教徒は、パンジャーブ州の多くの地域で、マジョリティとなっていきます

そうした人口動態の変遷も、シク教徒の政治運動に変化を与えるきっかけとなっていきます。そして独立後、シク教徒ははじめの一歩として「シク教徒のための州」建設に向けた運動を活発化させていきます。

3.シク教徒の分離独立運動①:運動の起こりと独立当初のインドのまとめ

独立前のインドにおいて、シク教徒はマイノリティであり、自身の宗教アイデンティティの保証のもとに、インド社会の中で穏健に生きるという選択をしました。

シク教徒の一部では、ムスリムのパキスタンのような国家建設を目指すという動きはありましたが、大きなうねりとなることはなく、「インド人」としての独立を迎えます。

次の記事では、独立後のパンジャーブ州で、ヒンドゥー教徒とシク教徒との衝突を招いたパンジャービー・スバという運動を中心に、1966年のパンジャーブ州分割までの動きを見ていきます。

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シク教徒が、強い政治意識を持ち始めます。
あれほど豊かだったインドの緑が、今では国土の5分の1しか残っていません。