パンジャーブ州:歴史と社会

パンジャーブ州:歴史と社会

パンジャーブ州というとどういったイメージをお持ちでしょうか。私は、アムリットサルの虐殺ゴールデンテンプルくらいしか知りませんでした。

しかし先日、インドのテロ情報をみていると、パンジャーブでのテロの多さに驚いたんです。インドの物騒な話が好きな私は俄然、パンジャーブ州に興味を持ってしまいました。

今回は、パンジャーブ州の歴史と社会について解説します。

1.パンジャーブ地方

パンジャーブは「5つの河」を意味し、インド亜大陸北西部、インダス水系中流域に位置します。5つの河は、西からジェーラム、チナーブ、ラーヴィー、サトラジ、ビヤースです。

政治的にパンジャーブ地方と呼ばれるエリアは、1910年代のイギリス領パンジャーブと諸藩王国からなり、現在のインドのパンジャーブ州と、パキスタンのパンジャーブ州、ハリヤナ州、ヒマーチャル・プラデーシュ州、デリー連邦直轄地を併せた地域となっています。

2.パンジャーブ地方の歴史

BC2000頃に栄えたインダス文明ハラッパ―遺跡は、現インド・パンジャーブ州中央部のラーヴィー川近くにあります。

イギリス植民地支配以前のパンジャーブは、西・中央アジアからの侵入勢力を、インド側が迎え撃つ要所となってきました。他地域の勢力の侵入以降は、パンジャーブを足掛かりに、インド各地に勢力を伸ばす拠点となります。

最初の侵入勢力はBC1500頃のといわれ、パンジャーブに定住後、北インド一帯に進出し、ヒンドゥー文化の基礎を作り上げました。パンジャーブに侵入した西方勢力としては、BC6世紀のダレイオス1世、BC4世紀アレクサンドロス大王、AD1世紀クシャーナ朝が有名です。しかし、こうした勢力がパンジャーブ統治に力を入れることはなく、インド史に大きな影響を与えることはありませんでした。

その後、11世紀頃のイスラム勢力の侵入以降、状況は変化します。ガズナ朝、ゴール朝の侵入は、パンジャーブ地方侵入を足掛かりに、インド拠点のムスリムの王国デリー・スルタン朝の建国に繋がります。そして16世紀には、パンジャーブに侵入したバーブルがムガル帝国を建国します。ムガル帝国の衰退後の19世紀初頭、パンジャーブ地方で力を蓄えていたシク教徒がシク王国を建国、その後イギリスと対立の末に滅ぼされ、以後イギリスに編入されます。これによって、イギリス領インドの形が出来上がりました。

こうした歴史的経緯のもと、パンジャーブ地方では、パンジャーブ語、ヒンディー語、ウルドゥー語が主要言語で、主要宗教はヒンドゥー教、イスラム教、シク教が併存しています。

3.イギリス植民地期以降のパンジャーブ地方

イギリス植民地期、イギリスはパンジャーブ地方の灌漑設備の整備を進めます。同地方は河川の流域となっており、灌漑設備を整備することで、農業生産力を高めることができると考えたためです。これにより、小麦や綿花、サトウキビなどの生産力が大きく向上し、以後インドの食糧庫的役割を果たすようになります。

この肥沃な土地は、独立後の1960年代の「緑の革命」によって、さらに農業生産力が向上し、食糧自給率向上に大きな役割を果たすことになります。

パンジャーブ地方は、独立運動においても重要な地域となります。

20世紀初頭の民族抵抗運動の指導者のラージパット・ラーイを生み、インド人に民族的団結を意識させ、反英運動を活発化させる事件、アムリットサルの虐殺の舞台でもあります。

また40年、ラホール(現パキスタン・パンジャーブ州)のムスリム連盟大会では、パキスタン国家建設の綱領採用が決定されています。47年のパキスタン分離独立の際、パンジャーブ地方の分割を巡り、激しい対立も起きています。その結果、イスラム教徒が多かったパンジャーブ西部がパキスタンに、ヒンドゥー・シク教徒が多かったパンジャーブ東部がインドに属することになりました。

その後48年に、インド・パンジャーブ州北東部はヒマーチャル・プラデーシュを連邦直轄地に、66年には南東部をハリヤナ州として分割しています。この2州はヒンドゥー教徒が多数派を占める地域で、州分割の結果、パンジャーブ州はシク教徒が多数派となりました。

その後、多数派となったシク教徒は分離独立を求め、パンジャーブ社会は不安定化していき、シク教過激派によるテロ行為が頻発することになっていきます。

4.パンジャーブ社会

現パンジャーブ州で多数派となっているシク教徒は、イスラムのムガル帝国アウグランゼーブ帝による迫害を受けた歴史をもちます。逆に、ヒンドゥー・シク教の間に対立の歴史はなかったため、インド・パキスタン分離独立の際に、シク教徒はインド側への帰属を選びました。

しかし、シク教はヒンドゥー教の一派として同一視されることを拒否し、シク教としてのアイデンティティをインド側に認めさせた上で、インドへの帰属となりました。この宗教アイデンティティは、パンジャーブ州シク教徒社会の基盤となります。

シク教徒の声は、パンジャーブ州の地域・宗教政党「アカーリー・ダル(不滅党の意)」が代弁し、独立後、66年に行われたパンジャーブ州分割も、同党の運動によるものでした。

州分割後、名実ともにマジョリティとなったシク教徒の特徴、動きを挙げてみます。

①インドの食糧供給基地としてのパンジャーブ

緑の革命」の成功以降、インド国内の食糧供給基地として高い生産力を誇るパンジャーブ州の農家の、圧倒的多数はシク教徒で、多くの富裕農が出現しました。

しかし、富裕農の出現と同時に、投資に失敗した層などは貧困層へ転落し、社会への不満から、後に活発化するシク教過激派への参加の要因となっていきます。

②パンジャーブ州へのヒンドゥーの流入

66年のパンジャーブ州分割後、シク教徒は同州においてマジョリティとして確固たる人口比率を得ました。

しかし、他の貧しい州から、貧しいヒンドゥー教徒の流入が多数始まり、その結果、シク教徒は人口比率を下げ、危機感を募らせることになります。

③国とシク教徒の思惑のズレ

パンジャーブ州のシク教徒は、インド経済への貢献を自認していましたが、インド政府はパキスタンとの緊張状態も続いていたため、同州を緩衝地帯として考えていました。そのため、工業化や投資には消極的となり、シク教徒の不満を高める要因となります。

また、インド軍のパンジャーブ州シク教徒の比率を、国が下げたことも、不満となっています。しかし、これも従来のシク教徒の比率が高かったものを、全国の比率を均等にするという目的で行われたものであったため、国との思惑のズレが軋轢を生むことになりました。

こうした不満の蓄積が、70年代後半からシク教過激派の運動を活発にし、シク教徒の国家「カリスタン」建国を求めるテロ行為が頻発する土壌となりました。

そして84年、シク教聖地ゴールデンテンプルを占拠したシク教過激派一派を国軍が一掃したため、シク教の怒りは爆発し、インディラ・ガンディー首相暗殺という事態を招いてしまいます。

その後もシク教徒の虐殺が起き、シク教側もテロを繰り返す状況が続いています。

この対立は、シク教とヒンドゥー教の対立にもみえますが、中央政府と州との対立という、連邦国家インドのもつ普遍的な問題に起因するとも考えられています。

5.パンジャーブ州のまとめ

パンジャーブ州の歴史的な動きと、社会の特徴についてみてきました。

インドでは人口比2%に満たないシク教徒がマジョリティになっているパンジャーブ州は、独特な政治的特色をもつ州となっています。歴史的には対立がなかったシク教とヒンドゥー教の関係が、シク教徒がマジョリティとなった途端に大きな対立へと繋がったという動きも興味深いです。

パンジャーブ州のシク教徒過激派が落ち着くことを願って、今回の記事を〆たいと思います。

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マハールを含めた不可触民に、伝統的に課されている制約があります。
時には政治的立場や見解の相違から、大統領と首相両者の間に緊張関係が生じたりします。