プーラン・デーヴィー:熱狂的支持を集めた女盗賊

プーラン・デーヴィー:熱狂的支持を集めた女盗賊

プーラン・デーヴィー(Phoolan Devi, 1958ころ-2001、以下プーラン)という人物をご存じでしょうか。その波乱万丈の人生は話題となり、世界中で報道された人物です。

幼いころに結婚させられた相手に凌辱(りょうじょく)され、盗賊団に愛する人を殺され、凌辱され、さらにその復讐で22人を虐殺した女性です。その後、政治家にまでなってしまいました。まるで映画の中の話のようです。

政治家で落ち着いたかと思えば、最後には暗殺され、インド中を騒然とさせています。

今回は、世界中で報じられたプーラン・デーヴィーという女性の、驚きの人生を紹介します。

1.幼年期から結婚

プーランは、ウッタル・プラデーシュ州のシャーローン県の小村で、マッラー・カーストとして生まれました。マッラーはシュードラで、船頭を生業とするカーストです。

プーランの家庭は貧しく、飢えと父親からの暴力にさらされながら育ったといわれています。幼少期から苛烈な性格であったプーランは、コミュニティとの関係が悪く、幾度となく衝突し、時には暴力がふるわれることもあったようです。

プーランを手に負えなくなった両親との関係は悪くなり、11歳の時に、彼女は30歳を超える男との結婚をさせられることになりました。プーランは、その結婚相手から一方的な暴力を受け、レイプをされ続けたため、彼女は夫の家を飛び出すことになります。しかし、当時のヒンドゥー社会において、離婚はタブー視されていたため、離婚することはなく、籍はそのままで「別居」という形で暮らしました。彼女のとった行為は、例え夫に問題があろうと、ヒンドゥー社会では忌み嫌われる対象となります。

その後、親族にはめられ、泥棒として警察に突き出されました。警察に拘留された彼女は、3日間虐待を受け、問題を起こさないように脅されたのち、解放されました。彼女は、この件で陥れた親族のことを恨んだといいます。

その後、16歳になったプーランは、再び夫のもとに連れ戻されることになります。プーランの実家は貧しく、食べ物にも困る状態であったため、夫の家に彼女を再び引き取ってもらうため、何度となく両親が頭を下げ、頼み込んだといいます。しかし、夫の家に引き取られた彼女は、すぐに実家に戻ることになります。プーランと夫の家族の折り合いがつくことはなく、最悪の関係だったといいます。後年彼女は、この夫のことを「とんでもない男」であったと言及しています。

彼女の行動は、ヒンドゥー社会では許されないものであったため、コミュニティから追放されることになりました。

2.盗賊になったプーラン

プーランが暮らしていた地域は、貧困層が多く、乾燥地帯のため、農業も効率的にできなかったため、多くの人は肉体労働を求め、都市部に移住しました。しかし、貧困な土地に囲まれた都市部も産業に乏しく、若者たちはダコイト(盗賊団)を作り、略奪を繰り返すといったことがままありました。

コミュニティを追い出されたプーランは、あるダコイトに捕まります。結婚先の夫を拒否し、家を飛び出した彼女は周囲で有名な存在であったため、狙われたという話もありますが、真偽は不明です。ダコイトの一団は、3日間彼女をレイプし続けたといわれています。

その時に偶然来た、プーランと同カーストの男性、ヴィクラム・マッラー(以下ヴィクラム)が彼女を助け、そのダコイトのリーダーを含む、襲った男たちを殺しました。その後ヴィクラムは、そのダコイトを乗っ取り、「ヴィクラム・プーラン盗賊団」を結成します。プーランは、妻のいるヴィクラムの愛人となり、盗賊として活動をしていくことになりました。

ヴィクラムの有名な言葉として「1人殺すくらいならば20人殺せ。そうすれば名声も高まる。1人殺しても絞首刑となるんだから」という物騒なものがあります。

3.プーランとヴィクラム

プーランはヴィクラムと暮らしはじめます。

その後、以前結婚していた夫の家を襲撃し、家から引きずり出し、衆人の前で刺し、リンチをし、幼児婚に反対する宣言をしました。夫は死ぬことはありませんでしたが、彼を助けることはプーランに狙われることになるかもしれないと村人たちは恐れ、彼をコミュニティの中でつまはじきにしたため、辛い人生を送ることになったといいます。

プーランはヴィクラムから銃の扱い方を学び、ウッタル・プラデーシュ州マディヤ・プラデーシュ州にまたがるバンデルカンド地方で、活動の幅を広げていきます。富裕層の住む村々にターゲットを絞り、殺人、略奪、、強盗を繰り返していたため、プーランたちのデコイトを義賊と呼ぶ人々も現れました。

そうした犯罪を行った後、プーランはドゥルガー女神の寺院を訪れ、女神への感謝をしたといいます。

4.ベヘマイー村の虐殺

その後、プーランのデコイトは、デコイト内部でラージプート(クシャトリヤ)とマッラー(シュードラ)の対立が起こり、激化していきます。

1980年、部下のラーム兄弟(ラージプート)が警察と手を組み、仕組んだ罠によってヴィクラムを殺し、プーランはベヘマイー村に連れていかれ、捕らわれてしまいます。プーランは3週間にわたり暴行を受け、レイプをされ、裸で村中を行進させられるなど、数限りない屈辱を受け続けました。

捕らわれてから3週間後、プーランは村内の低カーストの協力者の助けと、有力なデコイトのリーダーであったムスタクィームによって救出されます。救出後、ムスタクィームのデコイトにプーランは入り、「プーラン・ムスタクィーム盗賊団」と名乗ります。

1981年、プーランが捕らわれていた村を、プーランの盗賊団が襲撃します。プーランのターゲットは、以前同じ盗賊団であったラージプートで、裏切り、ヴィクラムを殺し、自身を凌辱した男たちでした。

計22人の男性を殺したプーランの人生は注目を集め、一躍世界中で報道され、国際的にその名を知られることになりました。この事件を「正義の復讐」と報じる新聞さえあったようです。

なお、プーラン自身はこの虐殺行為に参加したことは否定しています。

5.司法への投降

ベヘマイー村の虐殺以降、警察は捜査を進めましたが、プーランを逮捕することはできませんでした。警察の弾圧や、他のギャングの抗争により、プーランのデコイトは勢力を弱めていったため、彼女は投降することにします。

しかし、警察にはめられたことがある彼女は、投降と引き換えに、政府に以下の司法取引を求めました。

  1. ともに投降する仲間に死刑を課さない
  2. 仲間の刑期を8年以上にしない
  3. プーランに土地を与える
  4. プーランが投降する式典が行われる際、そこに来る彼女の家族を警察が護衛する

政府はこの条件を飲み、約1万人の観衆のもと、1983年、プーランは政府に投降しました。その後、11年の投獄の後、特赦が出て、彼女は釈放されることとなります。数々の罪、殺人や誘拐、強盗などの凶悪犯罪を犯したプーランの釈放は、世論にさまざまな論争を巻き起こしました。

6.その後のプーラン

釈放後のプーランは、下位カーストを中心とした熱狂的な支持もあり、1996年に政治家として政界に進出することになります。政治家としては、アルコール禁止やポルノに関する問題に、精力的に取り組んでいます。日本にも2度、政治家として来日をしています。

政治家として活動をしていた2001年7月25日、プーランは暗殺をされ、インド中を騒然とさせました。犯人はすぐに逮捕されましたが、背後関係など明らかになっていない点も多く、人々の興味を引くことになりました。

7.プーラン・デーヴィーのまとめ

プーラン・デーヴィーの人生は映画化をされたこともあり、人々の興味を引き付けるものでした。まるで中世の時代の話のようですが、実はインド独立後の最近の話なのも驚きです。

現代においても、プーランが率いていたような盗賊団が残っていると考えると、ロマンチックな風情さえ感じてしまいます。

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タンドリー・フィッシュなども危ないという話をよく聞きます