インド大反乱の女傑:ラクシュミー・バーイ

インド大反乱の女傑:ラクシュミー・バーイ

インド大反乱(セポイの反乱)をご存知の方も多いと思います。この反乱は、イギリスによる植民地支配を、より厳しいものとする契機となったといわれる事件です。

そして、このインド大反乱で、ひときわ大きな活躍をし、女傑とまでいわれたのが、ラクシュミー・バーイー(Lakshmi Bai)という女性です。今回は、「インドのジャンヌ・ダルク」との異名も持つ、ラクシュミー・バーイーについて紹介します。

1.ラクシュミー・バーイー

ラクシュミー・バーイーは、インドの民族運動の女性指導者、インド大反乱の「英雄」といわれている女性で、デカン高原に栄えたマラーター王国の、王族の末裔です。

以下、ラクシュミー・バーイーの生い立ちをみてみましょう。

1-1.幼年期

1828年11月、ラクシュミー・バーイーは、バラナシの町で生まれます。

1818年に崩壊したマラーター王国の末裔として、裕福な家庭で育った彼女は、幼少期から教育を受け、読み書きを覚え、様々な書物から知識を吸収していきました。

また、学業とともに、射撃や騎馬術、フェンシング、マラカンバ(以下の動画)などで、卓越したスキルを身につけていったといいます。

当時のインド社会では、貧富問わず、女性がハイレベルの教育を受けることは、極めて異例といえます。

なぜ、彼女の環境が異例かというと、インド社会は伝統的に、極めて強い家父長制であり、多くの女性は、識字力を持つ機会すら与えられなかったためです。

ちなみに、彼女が暮らしていた宮殿は、「ラニ・マハール(Rani Mahal)」と呼ばれ、現在は、9世紀から12世紀頃の遺物を扱う、博物館として開放されています。

1-2.結婚と世継ぎの廃嫡(はいちゃく)

1842年、ラクシュミー・バーイーは、ジャーンシー王国の王の弟であるガンガーダル・ラーオ(Gangadhar Rao:以下ラーオ)と結婚し、ジャーンシー(現ウッタル・プラデーシュ州ジャーンシー県)へと拠点を移します。

ラーオは、結婚の翌1843年、兄の跡を継ぎ、王となります。

ラーオの統治力(内政・外交ともに)は優れていたと評価されており、王国の都市は、ラーオの統治後、さらに発展したといいます。

また、ラーオは、ヒンドゥーの古典や芸術にも精通しており、サンスクリット文献の多くを所蔵した、図書館の建設などにも努めました。

結婚後、1851年に、ラクシュミー・バーイーは初子を出産しますが、その子は4か月後に、死亡してしまいます。当時のインドは、王家の子であっても、その衛生状況から、病気罹患率も高かったため、死亡率も自然と高くなっていました。産後間もなく、または大人になる前に死亡するケースは、貧富を問わず、多々あったといいます。

そして1853年、夫のラーオは急に、身体を壊し、動けなくなったため、急遽、養子を探すことになります。そして、夫の死の前日、後継ぎを確保するため、夫の従妹(じゅうまい)の子を、養子に迎えることになりました。

しかし、当時イギリス政府は、自らの権限を行使し、この養子の世継ぎを認めない旨を公布します。夫の死の前日に、養子が決まっていたとした、王国側の主張を、虚偽として認めなかったのです。

当時のインドでは、嫡子(ちゃくし)のいない王国は、イギリスに併合され、植民地政府の直接支配とする政策が、強権のもとに行われていました。そのため、ジャーンシー王国は、イギリスへと併合されることとなったのです。

そして、翌1854年3月、ラクシュミー・バーイーは、イギリス政府により、宮殿からの立ち退きを命じられ、去ることになります。

2.インド大反乱とラクシュミー・バーイー

2-1.インド大反乱

1857年5月、イギリスの支配への反抗として、インド大反乱が始まります。最初に反乱を起こしたのが、東インド会社のシパーヒー(傭兵)であるため、日本ではシパーヒー(セポイ)の反乱とも呼ばれています。

この反乱は、全インドの民族的な抵抗の第一歩として、位置づけられています。

1859年まで続いたインド大反乱は、当時、権力を奪われていたムガル皇帝を担ぎ、再び、正統の権力者として復権させようという名目で始まったもので、ヒンドゥーとムスリムの連帯が、特徴としてあげられています。

しかし、インド大反乱の鎮圧後、ムガル帝国皇帝は、正式に廃位となり、歴史から姿を消すことになりました。

2-2.反乱の原因

当時、シパーヒーたちが用いていた弾薬包には、ヒンドゥー教徒が神聖視する牛の脂や、ムスリムの不浄視する豚の脂が塗られていました。

これを噛みきり、銃に装填する当時のやり方は、両教徒にとり、宗教的タブーを犯していると感じさせるものでした。

これが、最も大きい不満要因だったといいます。

また、ラクシュミー・バーイーの国が、イギリス政府により廃嫡させられたように、国が潰された被害に遭った人も各地におり、そうした不満も、多くのシパーヒーがもっていたといいます。これは、シパーヒーたちが、特定の王国に由来する・忠誠を誓うケースが、多々あったためです。

その他にも、イギリス政府の統治への、複合的な不満が積み重なった結果といわれています。

2-3.ラクシュミー・バーイーとインド大反乱

ラクシュミー・バーイーは、インド大反乱で、どういった活躍をしたのでしょうか。王国を潰された後、3年間、ラクシュミー・バーイーは隠遁生活を送っていたといわれ、表舞台に出ることはありませんでした。

しかし、1857年5月にインド大反乱がおこると、王国のあったジャーンシーでもシパーヒーが蜂起をし、イギリス軍を虐殺した事件が起き、彼女にその、加担の容疑がかかったのです。

実際に、ラクシュミー・バーイーがシパーヒーの蜂起に関わっていたかは、明らかになっていません。

以降、ラクシュミー・バーイーは資財を投じ、傭兵や、民衆からの義勇兵を率い、戦っていくことになります。自ら先頭に立って、軍を統率し、イギリスの手先として動く周辺の藩王国を次々と打ち破り、遂には、以前暮らしていたジャーンシー城の奪還に成功したのです

そして一躍、反英闘争の象徴として、知られるようになりました。

しかし、翌1858年4月、イギリス政府の城の奪還作戦によって、城を奪い返されたのち、マディヤ・プラデーシュ州北部のグワーリヤルへと拠点を移し、戦いを継続します。

その後、彼女のカリスマ性を警戒したイギリス軍の総攻撃を受け、彼女は戦死を遂げます。

2-4.ラクシュミー・バーイーのインド大反乱における評価

当時、訓練を積んだイギリス軍を率い、ラクシュミー・バーイーと対峙した指揮官は、ラクシュミー・バーイー率いる軍が、女子供を含む義勇軍であり、こうした軍を率いて、互角以上に戦った統率力・軍略・カリスマ性は、驚嘆に値すると語っています。

その他にも、イギリス軍側の評価として、最も優れ、最も勇敢な戦士であったとの声が多くあります。

インド独立後、ラクシュミー・バーイーの功績は、女傑として再評価され、インド各地に銅像が建てられ、多くのインド人に愛されるヒロインとなっています。

3.インド大反乱の女傑:ラクシュミー・バーイーのまとめ

ラクシュミー・バーイーの活躍は、たびたび映画化もされており、その活躍はインド人に、幅広く知られています。この時代に、女性が先頭に立って軍を率いたという話は、なかなか聞かないものだと思うので、もう少し彼女について調べてみたくなりました。

また機会があれば、インド大反乱を含め、ラクシュミー・バーイーについても紹介できればと思います。

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