インパール作戦とそのインド国民軍

インパール作戦とそのインド国民軍

第2次世界大戦で、日本軍が採用した「インパール作戦」をご存知でしょうか。

インパールは、現インド、マニプール州の州都です。当時、戦線拡大をし続けていた日本軍と戦う、中国軍への支援物資を届けるための、重要中継地点と考えられていた地域です。

「インパール作戦」は第2次世界大戦で、日本が行った軍事作戦において、もっとも否定的な評価がされているものの1つです。

今回は、日本人に馴染みのある「インパール作戦」と、それに協力したインド人部隊の「インド国民軍」が、インドに与えた影響を紹介します。

1.インパール作戦

「インパール作戦」は、第2次世界大戦の日中戦争において、中国への後方支援を行っていたイギリス、アメリカ、ソ連からの輸送路を断つために、イギリス領であるインパール制圧を目論んだ、日本軍の軍事作戦です。

この作戦は、日本軍に甚大な被害を出し、「無謀な作戦」の代名詞として使われています。当初からこの軍事作戦は、軍内部からも猛反対された中、強行されたといいます。その結果、派遣された9万人のうち約2.4万人が死亡、約3万人が戦病となっています。

撤退戦も悲惨なもので、東南アジアの熱帯病で多くが死に、さらには食糧不足による餓死者も多数出しました。

日本軍にとっては、第2次大戦でもトップクラスの無謀な作戦との評価ですが、インドに与えた影響は、どのようなものだったのでしょうか。

日本は、イギリスとの衝突、インド侵入に際し、インド独立運動に影響を与えたともいわれる「インド国民軍」の設立に力を貸し、ともにイギリス軍と戦いました。

2.インパール作戦とインド国民軍

「インパール作戦」に際し、日本軍とともにイギリス軍と戦ったのが、インド国民軍です。

かれらは、その後のインド独立運動に、大きな影響を与えたといわれています。

2-1.インド国民軍

インド国民軍は、イギリスとの軍事衝突を見据え、マレーシア、シンガポール戦線などで捕虜にしたイギリス軍インド人将兵を中心に編成され、1942~45年に渡り、日本軍とともに戦いました。※

同軍には、さらに東南アジア在住のインド系住民が参加し、最大で約4.にまで拡大したといいます。

この軍隊は、「白人支配からアジアを解放するための組織」と掲げられています。そして「インパール作戦」へ向かうとともに、兵の練度は上がり、重武装化がなされて行きました。

インパール作戦に参加したインド国民軍は約6000人で、輸送路・兵站(へいたん)などを顧みない行軍であったため、壊滅的な敗北となり、戦死者400人、餓死者、戦病死者1500人を出してしまいました。

そして、ビルマ・タイまでの撤退を余儀なくされ、日本の敗戦を迎えます。

2-2.チャンドラ・ボース

このインド国民軍の指導者として活躍したのが、チャンドラ・ボースです。

ボースは若いころから、インド独立運動に参加し、指導者として評価され、政治家となります。しかし、イギリス政府は、ボースの高い指導力を恐れ、ボースを逮捕・収監しようとしたため、インド国外へと脱出をしました。

当時、ドイツに滞在しており、対英独立運動の指導者として名をはせたボースに対し、「インド国民軍」の指揮官としての役割を、日本は要請し、ボースは日本に赴くことになります。そして、インド国民軍の指揮官となり、へ赴くこととなります。そして、ボースのカリスマ性により、多くのインド系住民の募兵を成功させ、インド国民軍は4.5万人にまでなりました。

また、ボースは東条英機との会談で、大東亜共栄圏に、インドを入れないことを認めさせています。

「インパール作戦」の失敗後、ボースは、タイへと後退し、そのまま終戦を迎え、インド国民軍とともにイギリスへと降伏することになります。

日本の敗戦の後、ボースはソ連の支援のもとに、インドの独立を目指そうとしたといいますが、ボースを乗せたソ連行きの飛行機が墜落し、独立の日を迎えることはありませんでした。

当時のインド国内の、日本への評価は、日本でよく言われるように「インド解放の足掛かりとなった」といったような、甘い評価は少なかったようです。インド社会全体の動きとして、ファシズムを敵視していたということもあり、実際に、日本軍との戦闘で、多くのインド人が死亡しているので、当然でしょう。

ただ、ボースに関する評価は、日本への評価とは別に、熱狂的な支持層を作ることになりました。ガンディーのような、全インド的「英雄」ではなく、一部の熱狂的なファンにとっての「英雄」といった感じです。

そうした熱狂的ファンが多くいた、イギリス軍所属のインド人が、インド国民軍への軍事裁判への反発から、反乱を起こします。

2-3.インパール作戦後

イギリス政府は、日本に協力したインド国民軍を、反逆罪で裁こうとしましたが、一部インド人が、激しい反対運動を巻き起こします。インド国民軍が掲げた「「白人支配からアジアを解放するための組織」という言葉が胸にささったインド人が、一定数いたためでした。

この際、インド国民軍に共感した、イギリス軍人であった多くのインド人が、反乱を起こし、イギリス軍の艦艇数十隻を占拠したといいます。

インド側は、インド国民軍の行った戦争行為は、イギリス支配への抵抗であり、正当性のあるものだと主張をしています。

このようなインド国内の反応・反発は、日々大きくなり、イギリス統治の終焉を早まらせる、大きなきっかけとなったとの声もあります。

3.インパール作戦とそのインドへの影響のまとめ

チャンドラ・ボースは当初、ファシズムへの協力者との批判もありましたが、現在は、ヒンドゥー至上主義を後ろ盾とするBJP政権ということもあり、再評価される向きにあるといいます。

モディ首相も、ボースを評価する発言をし、注目を集めました。ただ、今回みたインパール作戦の無謀な行軍には、驚きます。なぜ、こんな作戦を強行したのか。

そこは、インドとはあまり関係がなさそうなので、個人的に調べてみたいと思います。


※日本が東南アジアへと戦線拡大した先に派遣された「イギリス軍のインド人将校」と「インド人兵」を、日本軍が捕虜にして寝返らせて、一緒に戦ったという形です。

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