インドを独立に導いたガンディーの波乱に富む生涯とその生き様から紡がれた言葉

インドを独立に導いたガンディーの波乱に富む生涯とその生き様から紡がれた言葉

【非暴力不服従】インド独立の父、偉人ガンディーの生涯

イギリスの植民地時代のインドを独立へと導いた偉人、ガンディーの78年間の生涯は、強い精神力と努力そのものでした。

ガンディー誕生~少年時代と結婚

1869年、インドはイギリスの植民地でイギリス領インド帝国でした。同年10月2日、ガンディーはインド帝国内のポールバンダル藩王国の宰相の子として生まれました。

子供時代にはヒンドゥー教をないがしろにし、素行の悪い少年だったことが伝えられています。

その後12歳でアルフレッドハイスクールに入学。そして13歳で生涯の妻カストゥルバと結婚しました。ちなみに、当時のインドでは13歳で結婚することは珍しくはありません。

イギリスでの生活

18歳になったガンディーは、イギリスのロンドンに移住、インナー・テンプル法曹院に入学して弁護士を目指します。

在学中、インドの宗教思想を取り入れた神秘思想結社と関りを持ち、その影響でヒンドゥー教の思想やインドの哲学に関心を持つようになります。

イギリスでの留学時代になって初めてヒンドゥー教や祖国インドへの関心が高まりました。

南アフリカに移住

インナー・テンプル法曹院卒業後、ガンディーはイギリス領南アフリカ連邦(南アフリカ共和国)に渡ります。そこで1893年に弁護士として働くことになりました。この時代にガンディーは様々なことを経験します。

南アフリカでもヒンドゥー教・インド哲学を学び続け、またキリスト教『新約聖書』の思想を研究しました。そしてそれらが非暴力運動思想へとつながっていきます。

また、白人による人種差別を経験したことで、よりいっそうインドへの思いを深め、インド系移民の権利回復運動を展開するようになりました。

このように、南アフリカでガンディーはイギリスに対して政治的な活動を行い始めたのです。

政治活動の他、共同農園を営み、禁欲、、清貧、純潔を柱に精神を高め行くような暮らしの中で、インドの独立を思い描くようになりました。

「非暴力、不服従」を掲げるインド独立運動の礎は、この南アフリカで生まれていたといえるでしょう。

インドに帰国

1914年に第一次世界大戦が勃発。そのさなか、1915年にガンディーはインドに帰国します。

イギリスはインド人を軍事に参加させようと、その引き換えに、「将来インド人による自治を認める」という条件を出しました。これを信じたガンディーは、率先してイギリス軍への志願を呼びかけています。

やがて第一次世界大戦はイギリス勝利のもとに終結しましたが、インド人による自治の約束は期待外れなものでした。

さらに、イギリスとの敵対国ドイツと関係を持っていたインド人が暴動を起こすなど、治安が悪化していたところに、強権を発動してテロを取り締まる「ローラット法」が施行され、イギリスへの反感が高まりました。

また、「ローラット法」反対を訴えるインド人数百名が虐殺された「アムリットサル事件」も起こり、ガンディーは「イギリスに協力してもインドは独立できない」との考えを固めます。

非暴力不服従運動と独立

インド国民会議は独立運動を推進する団体でした。ガンディーはそれに加入し、インドの独立に向かって中心的役割を担っていきます。

イギリスに対する不買運動や、塩税に抗議する「塩の行進」など非暴力不服従運動を展開し、その間に何度も投獄されるも不屈の精神で独立運動を続けました。
やがてガンディーの名は、インド独立運動の主導者として世界的に知られていきます。

1941年に第二次世界大戦が勃発、これにより日本とイギリスが敵対することになりました。そのためイギリスは日本軍の動向に影響を受けるようになります。するとインド独立運動と日本が関連する状況が生まれ、ガンディーは日本に対して声明を発表しています。古くから日本でガンディーの名が知られているのも、このような経緯があったからです。

インドを植民地としていたイギリスは、日本軍のインドへの接近と、戦争での国力の疲弊があって、インドを掌握し続けることが難しくなってきます。
そして勢いを増すインド独立運動に押される形でイギリスはこれを認め、1947年8月15日の独立宣言となりました。

インド独立後のガンディー

イギリスから独立をはたしたインドには、ヒンドゥー教とイスラーム教の宗教観の違いから、国を2分する対立が生じていました。

ガンディーはインドを2つに割ることに反対の立場で、反目しあう勢力同士の融和を図っていました。しかし、宗教の対立はインドとパキスタンに国を分ける方向へと進み、互いに軍事衝突することとなりました(第一次印パ戦争)。

そのような状況でもパキスタンに譲歩して融和を図り続けるガンディーは、ヒンドゥー教原理主義者から敵視されるようになり、1月30日一人の若者が放つ銃弾に倒れ、78年の生涯を終えました。


【偉人】ガンディーの言葉から学ぶ

ガンディーの生涯を知ると、彼の言葉の重みがわかります。

それは、努力と経験と切なる思いから紡ぎだされた魂の言葉、心にずっしりと響く言葉です。

「もし、臆病と暴力のどちらかなら、暴力をすすめよう。しかし非暴力は暴力よりもすぐれている。許しは罰よりも勇気と力が必要だ」

南アフリカ時代のガンディーはインドへの高い志をもったとみられます。その時に自らの精神を鍛える取り組みをしています。真の強さとは一体何なのか?ガンディーがたどり着いた答えがこの言葉に現れています。

「武器はあなたや人類を救うための役には立たない」

ガンディーはイギリス国民に非暴力の重要性を説く中でこのように言っています。しかし、この言葉を当時のイギリス国民は受け入れることはできなかったでしょう。

「残虐な破壊が、全体主義によって行われようとも自由や民主主義の聖なる名において行われようとも、死にゆく人々や孤児や浮浪者に対して何の違いをもたらすというのか」

暴力に大義名分を掲げることの愚かさを説く言葉です。非暴力の真の重要性がこの言葉に表現されています。

「欠点に気づいたら改める事。改める事そのものが重要で正しい。欠点を知りながら改めず、状況悪化を招いてはいけない」

当時のインドでは、誰もがイギリスの植民地支配を問題視していたはずです。そのインドを改める、またはイギリスに改めさせる事はどれほど大変なことだったでしょう。それをやりぬいたガンディーの発言ですから、単なる人生訓や心がけの話以上に重い言葉です。

「あの丘と同様、真実や非暴力は昔から存在している」

非暴力はガンディーが発明したものではありません。非暴力不服従を唱えることは簡単ですが、それでインド独立させるまで貫くのは難しい事です。非暴力が特殊なことではなく当たり前の事であり、当然のことながら実践するべきものであるということでしょう。

まだまだ、ガンディーが語った言葉はたくさんあって現代にも語り継がれています。

それらの言葉をガンディーの生涯と照らし合わせてみると、学んだ宗教から出た言葉であったり、経験から思った言葉であったり、インド独立という大業績をやりぬいた人の言葉であったりします。

その言葉を発したときのガンディーの心境はどんなものだったのでしょう?

よくある人生訓的な名言とは一味違って、ガンディーの生きざまを感じさせる言葉です。

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