植民地期インドの飢饉

植民地期インドの飢饉

インドでは、歴史的に多くの飢饉(ききん)が起き、ひどい時には、一つの飢饉で1000万を超える死者があったこともあるのを、ご存知でしょうか。日本の飢饉などとは、ケタが違い過ぎます。

今回は、植民地支配下のインドにおける、飢饉をみていきます。植民地支配における収奪が、飢饉において、よりひどい被害をもたらした状況をみてみましょう。

1.飢饉(ききん)とは

飢饉とは、多数の餓死者や飢餓者を発生させる、極度の食料不足に陥ることをいいます。

インドのある南アジアで、飢饉が起こる主な原因は、歴史的に、戦争や自然災害(夏のモンスーンにおける極端な雨不足、または豪雨による氾濫など)でした。飢饉の起こる背景としては、貧困をはじめとした社会経済の問題があり、飢饉の犠牲になるのは、圧倒的に貧困層でした。

飢饉の犠牲となる規模と、社会制度や経済(貧困層の多寡)は、密接に関係しているため、「飢饉の歴史」は社会経済の発展の歴史だともいわれています。社会経済の発展は、貧困層の減少を意味し、それに比例して、飢饉の犠牲者も減少するためです。

2.インドの飢饉

南アジアの地域では、20年に1度のペースで飢饉が発生しているといわれ、歴史上、多くの飢饉の記録があります。

大飢饉は、イギリスの植民地支配の鉄道網の整備などと本格化に比例し、起こるようになったといわれています。これは、植民地支配によって、従来は南アジアの中で分配されてきた食料が、植民地政府によって収奪されたためと、多くのインド人は考えています。インドを横断する鉄道には、多くの食料が積まれていましたが、飢饉に苦しむ人々は、それを見ることしかできなかったのです。

植民地支配以降、19世紀末までに起きた、有名な大飢饉をあげてみます。

  1. 1769-70年 東インド一帯、死者約1000万人
  2. 1832-33年 北西インド一帯、死者数百万人、この飢饉を機に、灌漑の整備が行われる
  3. 1861年 西インド一帯、死者数百万人
  4. 1865- オリッサ地方、死者約150万人
  5. 1873-74年 ビハール地方、死者約100万人
  6. 1876-78年 デカンから南インド一帯、死者約500万人、植民地政府はこの飢饉を機に、飢饉委員会を設置し、81年の同委員会による報告によって、飢饉救済制度が制定され、飢饉対策として灌漑用水路の建設も進められた
  7. 1896-97年 北西インド一帯、死者数百万人
  8. 1899-1900年 西インドからデカン一帯、死者数百万人

これらの途轍もない被害を出した大飢饉の直接の原因は、干ばつなどに起因する凶作ですが、被害を決定的に拡大させたのが、高い地税や、悪名高いザミンダーリー制のような、中間層からの搾取を前提とした税制といわれています。

こうした、搾取を前提とした社会体制により、中間層は富を奪われ、借金が膨らみ、債務に苦しむ貧困層が増大することで、農村等の地域コミュニティの崩壊、そして、貧困に苦しむ人々を狙う、人身売買を行うような悪徳商人が跋扈(ばっこ)したといいます。

飢饉になると、食料の物価が急上昇し、庶民には手が出せない状況となっていました。飢饉の被害が拡大したのは、人的要因によるものと、多くの研究者が指摘しています。

3.ベンガル大飢饉

ベンガル大飢饉は、1943年に、イギリス支配のもと起きた飢饉で、150~300万人の犠牲者を出し、イギリス統治への決定的な不信感を、インドに広めたものとなりました。

ベンガル大飢饉が起きた要因をみてみましょう。

まずは、農作物の不作です。1942年の収穫は、例年の7~8割程度の収穫高だったといいます。この原因は、同年に起きた大型サイクロンの被害、そして、その後の長雨に伴い、農作物がカビたためです。

また、日本軍がビルマにまで、戦線を拡大したことにより、米の輸入が途絶え、ベンガルの食料供給に悪影響を与えました。政府も、戦時中ということで、こうした中間・貧困層の被害に、目を向ける余裕がなかったということもあるのでしょう。

こうした条件が重なり、1943年に入り、食料供給が圧倒的に不足し、大飢饉を招いてしまいました。このベンガル大飢饉が、最初に明らかになったのは、ベンガルから離れた、田舎の農村部でした。こうした地域には、作物がないからといって、金銭で食料を購入できない貧困層が多いため、こうした地域から被害が発生してしまいます。

また、飢餓に伴い引き起こされるのが伝染病です。

多くの人々が栄養失調となり、動けないため、コレラ、マラリア、天然痘が流行し、餓死でなく、こうした伝染病による死者も多発しました。

ベンガル政府も、問題に対処しなかったわけではありません。食料品の物価上昇に規制をかけ、食料供給をなんとか改善しようと試みました。しかし、こうした規制は成功せずに、米をはじめとした食料の価格の上昇は、止められませんでした。

都市部には、飢餓に苦しむ、農村部から逃れてきた人々であふれ、治安や衛生状態も劣悪となったといいます。

公機関による炊き出し等も、積極的に行われましたが、需要を満たすことなど到底できず、街のあちこちに、餓死者の遺体が転がっていたといいます。

当時、カルカッタ市内の、飢餓で苦しんでいた人は、少なく見積もって10万人といわれていますが、その実数は、はるかに多かったとの調査もあります。

政府は、カルカッタの治安・衛生環境維持のために、この飢餓者、飢饉に苦しむ貧困層を、街から追い出すことを決めます。この法案の名前は「ベンガル生活困窮者(強制送還救済)条例」といい、当然、多くの人々の反発を買うことになります。

また、1944年に入り、餓死者の数は減っていきましたが、栄養失調が続いた人々も多く、農村部における伝染病の死者数は、落ち着きを取り戻すまで、時間がかかったそうです。

4.植民地期インドの飢饉のまとめ

インドには、飢饉に関する歴史的記述が多数あり、2000年以上前のものもあるといい、インドの歴史の深さを感じます。

今回紹介したイギリス期の飢饉は、やはり、イギリスによる富の収奪・搾取が影響しており、そうした話を知ると、インド人がイギリス人への反発を、いまだにもっていることも理解できます。

現在においては、大干ばつが起き、壊滅的な不作となっても、植民地期のような死者が出ることはないはずです。ただ、餓死者が出ないとは、言い切れません。

機会があれば、現代の飢饉、大干ばつなども、調べてみたいと思います。

BlogMuraFC2BlogRanking

VISITORS HERE:4,844, HOLI GREEN TOTAL VIEWS : 3,506,081

Previous(down)/ Next(up)
仏陀は、ハーリーティーが人肉を二度と食べないように、人肉の味がする果物「吉祥果(きちじょうか:ザクロ…
町はずれのスラム近くで、ホームレスたちが輪になって、カードゲームを興奮して興じているのを、見たことが…