クリミナル・トライブ:植民地期のインド蔑視が影響したカテゴリー

クリミナル・トライブ:植民地期のインド蔑視が影響したカテゴリー

今回紹介するワードは「クリミナル・トライブ」というものです。あまり聞き馴染みのない言葉かもしれませんが、これは植民地時代に、ステレオタイプな差別意識を基にカテゴライズされた、社会グループです。

こうした、偏見を基に作られた「クリミナル・トライブ」が、どういったものだったのかを、今回は紹介します。

そこでまず、「クリミナル・トライブ」というカテゴリーが形成されるきっかけとなったといわれる、タグ(Thag, Thagi)という、犯罪傾向のある社会グループの解説をし、その後に「クリミナル・トライブ」を紹介します。

1.タグ

タグは中世、植民地期において、被害が報告された、盗賊や強盗団を生業とする、ある種のカースト的グループの総称で、この中に、さらに細分化されたグループがあります。

古来、タグという言葉は、偽る、騙す、騙すものという意味で使われていましたが、そこに犯罪傾向のある社会グループという意味も加わります。

かれらの活動領域は、一般的に、北インドやデカン高原といわれており、メンバー構成はヒンドゥーだけでなく、しばしばムスリムもおり、一般的なカーストグループとは異なる特徴をもちます。

かれらのターゲットは、旅人や行商が主で、親密になった後に、薬などを飲ませ、意識を失わせている間に、資財を略奪する手口です

殺してしまうケースも多々あったといいますが、土着の人間を殺すことは少なかったため、特定の犯罪グループとしてのタグに辿り着くことは、難しかったといいます。

また、殺した場合は、ばれないように、遺体の処理を行っていたようです。

このタグの存在が大きく注目されたのは、19世紀に入り、植民地政府が税収の向上を考えていた際のことです。

タグは、特定の地域に根を下ろし、農業などで生活を営むわけでなく、人々から収奪をして生計を立てていたため、政府にとって、税の回収の阻害要因と認識されました。

そのため政府は、税収の向上・治安維持のために、タグ対策へと乗り出し、1860年代には、大規模なタグの被害はほぼ抑えられたといいます。

この、当時の取り締まりの様子は、大変厳しいもので、多くのタグ・コミュニティが、政府の官兵によって、徹底的に弾圧され、抵抗をするものは殺されたといいます。

当時のタグ・コミュニティの多くは、壊滅的打撃を受け、強盗団としての活動は困難になりました。

その後、イギリス政府は、継続的に、タグのような社会グループによる犯罪行為を抑えるため、「クリミナル・トライブ」という、差別意識にも繋がるカテゴリーを作り出します。

2.クリミナル・トライブの導入

イギリス政府は、タグの抑え込みに成功しますが、その後も継続的に、グループ犯罪に対処する必要があると考えました

そこでイギリス政府は、「クリミナル・トライブ」というカテゴリーを設けて、これに該当するグループに、規制をかけることにします。

これを定めたのが、1871年に施行された「クリミナル・トライブ法(Criminal Tribes Act)」です。

2-1.クリミナル・トライブ法

この法を施行するにあたり、政府は、インド社会の特徴として、次のことをあげています。

  • 人は、のメンバーとして生まれ、そのカーストは、伝統的な職業を継承している
  • 職業選択の余地は一切なく、生まれたカーストの職を守らなければならない

これは、極めてステレオタイプといえるカースト観で、実際のカーストの職業は、ある程度の固定化された仕事はあれど、地域の需要など、様々な要素から、各カーストの仕事は多様性をもつことがほとんどです。

しかし、当時の植民地政府は、カーストと仕事を固定的なものとして規定し、一度、カースト・グループが組織的・または複数人で犯罪を起こしたら、そのカーストが犯罪性向をもつとしてしまったのです。これにより、特定のカースト・グループは、「犯罪の常習者」との烙印を押され、毎週、警察へと行動の報告をしなくてはいけなくなりました。

さらには、両親の下で子が育つと、犯罪を繰り返すという偏見から、親から子供を隔離することが義務化されます。このことは、「クリミナル・トライブ」とされた人々は、屈辱とともに、多くのインド人から、差別的な目を向けられるきっかけとなりました。

2-2.クリミナル・トライブ認定をされたグループ

①サンシ

サンシ(Sansi)は、パンジャーブ地方を中心に暮らす遊牧民族です。かれらの生業は家畜泥棒といわれており、遊牧先で盗んだ家畜を基に、生活を営みます。

1871年の「クリミナル・トライブ法」の施行と同時に、「クリミナル・トライブ」に認定されています。

ただ、実際には、すべてのサンシが盗みを働くわけでなかったことも事実で、この法の施行以降、周囲の人々の、かれらに対する警戒感は極めて強くなり、もともと裕福でない生活レベルはさらに下がり、苦しいものとなったといいます。

②ミナ

ミナ(Mina, Mrrna)は、ラージャスターン地方を中心に暮らす部族グループです。このミナは、中世から、犯罪者グループとして記録に残っており、そこでは極めて暴力的で、略奪などを繰り返す社会グループとして描かれています

ミナも、1871年の「クリミナル・トライブ法」の施行と同時に、「クリミナル・トライブ」に認定されています。

ミナは歴史的に、ネガティブな記述が多くなっていますが、現在の研究では、必ずしもそうでないといわれています。ミナは、時の王朝など、権力者に服従せず、争っていたため、歴史を記してきた権力者が、ネガティブな描き方をしたともいわれています。

ただ、他の部族などと比べ、権力者に服従しない、好戦的な部族であることも事実といえそうです。

3.クリミナル・トライブ:植民地期のインド蔑視が影響したカテゴリーのまとめ

「クリミナル・トライブ」という、イギリスが定めた概念を紹介しました。イギリスは基本的に、インドのことを「後進的」と認識していたため、こうした決めつけが行われてしまったのでしょう。

「クリミナル・トライブ」とされてしまった部族の多くが、貧困に苦しんだゆえの犯罪行為であったとも想像できるので、イギリスの圧政も影響していたんじゃないの?とも思ってしまいます。

また機会があれば、植民地時代のエピソードを紹介できればと思います。

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