アムリットサルの虐殺⑤:虐殺後の動き

アムリットサルの虐殺⑤:虐殺後の動き

アムリットサルの虐殺後、民族運動が拡大し、独立に向けた機運が高まっていきました。

そしてこの事件は、イギリス植民地政策の恥部として、国の内外で広まっています。

今回は、虐殺の指揮官ダイヤーの病死後に起きた、虐殺当時のパンジャーブ副知事の暗殺と、1997年にエリザベス女王がジャリアンワーラー・バーグに訪れた際の発言や、周囲の反応を中心に紹介します。

1.虐殺当時の知事、オドワイヤーの暗殺

1940年3月13日、虐殺当時の副知事であり、指揮官のダイヤーがとった行動を支持した、マイケル・オドワイヤーがロンドンで射殺されました。この事件の犯人は、アムリットサルの虐殺を目撃し、自身も負傷をしていたウダム・シンというインド人独立運動家でした。

この事件は世界中で、ジャリアンワーラー・バーグの虐殺の責任者が殺されたと報道されたといいます。イギリスの新聞でも、この事件を「荒廃したインドの鬱屈した怒りの表現だ」と、殺されたオドワイヤーを批判的に書いていました。他の記事でも、多くのインド人にとり、これは天罰でしかなく、オドワイヤーは虐殺の責任の当事者であり、当時アムリットサルにいたインド人の多くが、辛酸をなめたのだと書いています。

暗殺当時、イギリスと敵対していたドイツでも「インドの自由の松明」や「拷問された人々の叫び声が銃声として響き渡った」などと大きく報じられています。

インドでもオドワイヤー暗殺は各地で大きく報道されています。

  • 「インドの侮辱と屈辱への復讐
  • 「オドワイヤーがパンジャーブの同胞に浴びせた屈辱は忘れない」
  • 「オドワイヤーの名前は、インド人が決して忘れられない事件に関係する」

など、どれも殺害を肯定的に報じるものだったといいます。

オドワイヤーを殺し、逮捕されたシンは、裁判で次のように述べています。

  • 「イギリスはアイルランド同様に、インドをどのように統治すればよいのか理解していない」
  • 「後世の歴史家は、大英帝国を破壊したのはナチスではなく、イギリスの支配階級制度だというであろう」
  • 「(暗殺は)真犯人のオドワイヤーを恨んでやったことで、当然の報いだ」
  • 「オドワイヤーが民族の魂を打ち砕こうとしたから、私が彼を砕いた」
  • 21年間、かれを恨んで生きてきて、願いがかなった今、幸福である」
  • 「私はイギリス支配によって、インド人が飢えているのを見てきており、この殺害は抗議でありでもあった」
  • 「この結果(暗殺成功)の後の私の死()は、これ以上ない名誉である」

この裁判の後、7月31日にシンは絞首刑が執行されました。

当時、ガンディーやネルーは、どんなに勇敢であろうとも、殺人はしてはいけない、無意味だとの声明を出しています。

しかし独立後、首相であったネルーは、シンを讃え、国のために英雄的な業績を残した人に与えられるシャヒードの称号を与えられています。

2.エリザベス女王のジャリアンワーラー・バーグ訪問

1997年10月14日、エリザベス女王がフィリップ王子とともにジャリアンワーラー・バーグを訪れた前日、女王は以下のように話しています。

  • 「イギリスとインドの過去には、困難なエピソードがあることは知られています」
  • 「ジャリアンワーラー・バーグは、悲惨な、悲しい歴史でした」
  • 私たちは悲しみから学び、喜びを積み重ねなければなりません

そして14日、ジャリアンワーラー・バーグで、エリザベス女王とフィリップ王子は、30秒間の黙とうをし、敬意を表しました。

またエリザベス女王は、シーク教徒の聖地であるアムリットサルに敬意を表して、宗教色であるピンクのドレスを着用し、慰霊碑を訪れた際にはインド人同様に、靴を脱いで献花をしています。この女王の訪問と言葉は、一部のインド人には歓迎されましたが、多くのインド人は謝罪がないことを批判したといいます。この当時のインドの首相は、こうした批判に、女王は事件当時、生まれていないため、謝罪の必要はないんだと擁護しています。

その後の女王の行動と声明も、論争を起こしています。慰霊碑への訪問の後、訪問帳にサインをしたのみで、謝罪等のコメントを出さなかったため、多くのインド人の批判を受けました。

この訪問の際の、フィリップ王子と、ガイドのインド人とのやり取りも広まり、批判の的になっています。フィリップ王子は、多くのインド人が2000人が殺されたとする主張に、負傷者を含めた数であり、誇張だとガイドに話をしたというのです。これはインド滞在中に、フィリップ王子が語った唯一の言葉として広まり、「開き直っている」「反省していない」など、多くのインド人が怒りました。

3.アムリットサルの虐殺⑤:虐殺後の動きのまとめ

アムリットサルの虐殺は、現在もインド人の間で、イギリス統治の最も悲惨な弾圧の事件として教えられています。現在もイギリス政府は公式に謝罪しておらず、あくまで「悲惨な出来事」として言及するに留まっています。

ただ、イギリス人は植民地支配をした各国で、同様の悲惨な弾圧行為を大なり小なり取っているため、一度謝罪をすると、世界中に謝罪をして回らなくてはいけなくなる、という負い目もある、というのもよくいわれています。

インドでも、アムリットサルの虐殺の他にも、インド大反乱の際の徹底弾圧や、インドのチャルカ産業への脅威から、職人の腕を切り落として周ったなどの話もあります。

今回5記事にわたり、アムリットサルの虐殺についてみてききました。この事件がきっかけとなり、多くのインド人の民族意識に火がつき、独立に向けた運動が活発になった、歴史的にも重要な転換点です。

機会があれば、植民地期のその他の動きについても、またみていきます。

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コミュナリズムに起因する衝突が起き、死者が出る暴動にまで発展するケースがあります。
虐殺が起きた一番の要因は、軍の指揮官であったダイヤーであったことがよくわかります。