アムリットサルの虐殺④:虐殺指揮官ダイヤーと著名人の発言

アムリットサルの虐殺④:虐殺指揮官ダイヤーと著名人の発言

アムリットサルの虐殺は、インド国内外にインパクトをもって拡散することとなりました。

今回は、事件翌日の指揮官ダイヤーの発言や、各著名人の発言、そしてアムリットサルの虐殺への厳格な調査が行われたと、インド側からも評価されるハンター委員会についてみていきます。

ダイヤーの非人道的な顔は、植民地統治下とはいえ驚かされます。

1.虐殺翌日の指揮官ダイヤーの言葉

死者1000人以上ともいわれるアムリットサルの虐殺の翌日、指揮官であったダイヤーはウルドゥー語で、次のような言葉を発表しています。

  • 「群衆が反乱軍であることはわかっている」
  • 戦争を望むなら政府はその準備ができてる」
  • 「平和を望むならば政府の命令に従い、ボイコット運動を止めなさい」
  • 「さもなければ私は撃ちます
  • 「我々には平和を守る必要があり、そのためには銃も使います」
  • 「私の命令に従いなさい」
  • 「あなたたちはイギリス人を殺すという悪事を働きました」
  • はあなたや、あなたの子供へ向けられることになるのです」

まさしく脅迫です。こうした言葉を、無抵抗の人々を虐殺した翌日に、市民に知らせたといいます。市民は怒りと恐怖に震えると同時に、反英意識を急速に高めることになりました。

インド全体にもこのニュースは広がり、従来は穏健であった多くのインド人がイギリスへの親和性を失い、民族主義者へと目覚めるきっかけとなりました。

2.虐殺後の著名人の動き

この悲惨な虐殺は、の内外で激しい批判、反発を巻き起こしました。ここでは、著名人の出した動きや声明についてみていきます。

2-1.イギリス、ウィンストン・チャーチル

後にイギリスの首相となることで知られているウィンストン・チャーチルは、この虐殺について言い表すことができないほど恐ろし行為とし、以下のように述べています。

  • 群衆は銃口を向けられたから、パニックになって逃げた
  • 無抵抗の群衆に向けて銃を乱射した
  • 出口のない狭い場所で、1発の銃弾が貫通し、一度に3、4人を殺した
  • 群衆は方々に逃げたが、逃げた先に銃口を向け、多くの人々を射殺した
  • この銃撃は10分ほど続けられ、弾薬が尽きるまで行われた

イギリスの下院で、虐殺の指揮をしたダイヤーを批判する決議が行われ、圧倒的多数で可決されました。

しかし事件当時、多くのイギリス人は、ダイヤーのことをイギリスによるインド支配を適切に救った英雄と讃えたといわれています。

2-2.詩聖タゴール

アジア人初のノーベル賞(ノーベル文学賞)を受賞し、イギリスからナイトの爵位を授かったことでも知られるタゴールも、イギリスへの反発を表明しています。

タゴールは虐殺への抗議のために、インド総督に宛てた手紙には、次のようなことが書かれました。

  • イギリス軍による非人道的な弾圧に抗議するため、ナイトの爵位を返上する
  • インド人は人として劣った存在として追いやられており、私はそんな同胞の側に立つ
  • この虐殺は、イギリス臣民であったインド人の無力さを痛感させた
  • 本来名誉であった爵位のバッジが、恥辱の歴史の中で与えられたことを明らかにする

タゴールの手紙は公開され、多くのインド人が鼓舞され、民族意識を揺さぶられたといいます。

2-3.

ガンディーは、自身が推奨し、インド人の中で広まっていた非暴力運動が貫けなかったことが、政府の虐殺を誘引してしまったと、自らの指導力不足を嘆き、一時的に運動を中止します。

ガンディーはこのことを「ヒマラヤの誤算」と呼び、以下のように語っています。

  • 現状、自身の推奨した非不服従運動の実践をするために、政府の法の上で行う必要がある
  • 政府の定めたルールは、弾圧のもとに服従するのではなく、自由意志のもとに従うべき
  • 市民が法のルールに従うことで初めて、そのルールの邪悪さを判断できる
  • 法に従うことで初めて、法に対する非服従を行うが生まれる
  • 自身の過ちは、このことを人々に広められなかったことである

3.ハンター委員会

1919年10月14日、ハンター委員会(Hunter Commition)は、パンジャーブ、デリー、ボンベイなどの、暴動の原因や事後処理のため設置されました。アムリットサルの虐殺も調査対象となっています。

この委員会では、事件の当事者の多くが調査対象となり、徹底した調査が行われたことで知られています。

11月19日には虐殺の指揮を執ったが召喚され、聴取を受け、以下のように述べています。

  • ジャリアンワーラー・バーグで集会が開かれることを知っていたが、それを阻止する動きをとろうとしなかった
  • 集会が行われていたら、発砲を許可するつもりで現地へ向かった
  • 発砲なしに集まった群衆を解散させることができる可能性はあったが、もし追い払ったとしても、群衆はすぐにその場に戻り、ダイヤーを侮辱すると考えた
  • 集まった群衆は反乱軍であり、ダイヤーの部隊を孤立させようとしたため、、鎮圧することが自身の義務であると考えた
  • 装甲車が現場に入ることができたら、機関銃の使用の可能性もあり、より多くの犠牲者が出ることも認識していた
  • ダイヤーはパンジャーブテロ行為を煽り、民族運動のイメージ低下を図った
  • 群衆を解散させることが目的のため、解散するまで発砲を続けるのがダイヤーの義務だと考え、最小限の発砲でなく、弾薬が尽きるまで撃ち続けた
  • 銃撃の後負傷者を助けなかったことは、ダイヤーの義務ではなく、開いている病院に行くことはできた

このハンター委員会の調査以降、ダイヤーの発言は報道され、彼への批判はとてつもないものとなりました。

その後、ダイヤーが病気で入院したこともあり、引退に追い込まれ、1927年に死亡します。

4.アムリットサルの虐殺④:虐殺指揮官ダイヤーと著名人の発言

こうしてみると、虐殺が起きた一番の要因は、軍の指揮官であったダイヤーであったことがよくわかります。たしかに、虐殺事件の直前に、イギリス人の殺害などありましたが、戒厳令や集会の禁止などの周知を怠たったのは事実のようです。

そして、ジャリアンワーラー・バーグに軍を向ける際に、集まった群衆への発砲も考えており、その後の逃げ惑う群衆めがけて発砲を指示したことを考えると、最初から虐殺をする気だったのではないかと勘ぐってしまいます。

虐殺翌日の彼の発言も、インド人へ侮辱的な内容であり、人間性の問題が多分にあったように感じます。

このような彼の行動と反応は、インド人の間に広まり、穏健であった多くのインド人たちに火をつけ、反英民族主義のうねりが急速に広がるきっかけとなりました。

次の記事では、アムリットサルの虐殺後の余波についてみていきます。

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国のために英雄的な業績を残した人に与えられるシャヒードの称号を与えられています。
市民との間に認識のギャップが生まれ、虐殺は起きることになります