アムリットサルの虐殺③:虐殺の状況と被害者

アムリットサルの虐殺③:虐殺の状況と被害者

前記事で触れたように、虐殺の起きた直前のパンジャーブ州は、各地で暴動が起き、イギリス政府はインド人の集会を大きな暴動へとつながる可能性があると、危険視していました。

そうした中、戒厳令を出し、外出禁止令が出されますが、市民との間に認識のギャップが生まれ、それが埋められることはなく、虐殺は起きることになります。

今回は、虐殺と諸説ある犠牲者数についてみていきます。

1.虐殺

、虐殺が起きたその日の朝、パンジャーブ各地でイギリス人・インド人双方に犠牲者を出した暴動を受け、政府は戒厳令を出し、集会の禁止、夜間外出の禁止を発令していました。しかし、その周知は徹底されなかったため、庭園であるジャリアンワーラー・バーグに集まった人々の多くは、知らなかったといいます。

事件当時、ジャリアンワーラー・バーグには、1~2万人の人々がいたといわれています。そこに抗議のために集まった人々は、ガンディーの非暴力的運動の支持者が中心で、暴動は禁止され、あくまで抗議のために集まった人々が中心でした。

しかし、政府側は集会禁止の発令を無視をした、危険な暴動が起こる危険性があると考え、銃やライフルで武装した多くの兵士と、機関銃を装備した装甲車を、現地に派兵しました。

このジャリアンワーラー・バーグは、周囲を壁で囲まれ、出入口は5つありましたが、4つは鍵がかけられており、実質は1ヵ所のみの出入り口となっていました。つまり、中に集まった人々の逃げるルートは、1つだけだったということです。

軍の到着後、指揮官であった准将のダイヤーは、群衆に警告することなく、1つしかない出入口を封鎖します。ダイヤーはこの集会を解散させようとすることはありませんでした。このことが、ダイヤーが意図的に群集を殺したのだといわれる大きな理由となっています。周知されていなかった集会禁止令を破った罰として、そこに集まった人々へ発砲をしたということです。

1つしかない出入口を、武装した兵士たちに封鎖された群衆は、パニックとなり、ジャリアンワーラー・バーグから逃げようと、出口に殺到したといいます。するとダイヤーは、群衆が襲い掛かってきたと考えたのか、人が殺到している出口のある場所に向けて、発砲の命令を兵士たちに下します。

約10分間、パニックになった人々へ、銃撃は続けられました。

発砲を止める命令が出たのは、約1650発の弾薬が尽きかけた時であったといわれています。

この銃撃による死者とは別に、銃撃から逃げるために、パニックになった人々に押しつぶされて死んだ人や、井戸に飛び込んで溺れ死んだ人など、多くの人々が犠牲になりました。

独立後に、この庭園に置かれた石碑には、120人の遺体が井戸から引き上げられたと書かれています。

多くの人が、銃撃や圧し潰されたことによってケガをしましたが、政府が発令していた夜間外出禁止令によって、医者が駆けつけることも、負傷者を病院へ連れていくこともできずに、多くの人が朝を迎えるまでに死んだといわれています。

2.死傷者数

死傷者の合計数には諸説あり、正確な数はわかっていません。

事件後、パンジャーブ政府は犠牲者の数などの発表を行わなかったため、多くの批判が起こっています。批判の中、政府が出した数字は「死傷者約200人」という曖昧かつ少ないもので、実際の数字はもっと高くなる可能性があると、パンジャーブ議会議員が調査の必要を話しています。その後の調査で、37の死者と、800人弱の重症者が確認されています。

9月12日に開かれた会議では、死者の中に42人の少年がおり、最年少は生後7か月の男の子であったことが確認されました。虐殺から3か月後の1919年7月、犠牲者の情報を提供するように、政府職員が住民に呼びかけ、犠牲者の捜索をにあたっています。しかし、地域コミュニティの外から参加した人も大勢いたため、この調査だけでは不十分であったと指摘が多く上がっています。

公式の発表では、ジャリアンワーラー・バーグに集まった人々の数は、6,000~20,000人です。その後、国民会議派によって独自の調査が行われると、死者は約1000人、死傷者は1500人以上であったと報告されています。他の調査では1500人の死者が出たとするものもあり、議論の余地が残るとされます。

イギリス政府は報道規制を敷き、虐殺の情報を隠そうとしましたが、ニュースは瞬く間に、怒りとともに全インドに広がりました。なお1919年12月まで、虐殺の様子は、イギリス本国では知らされることはありませんでした。

3.アムリットサルの虐殺③:虐殺と被害者のまとめ

この虐殺の起きた要因としてあげられるは、軍の指揮官であったダイヤーによる、戒厳令、集会の禁止などの周知の不徹底と、ダイヤー個人の人間性の問題です。実際、ジャリアンワーラー・バーグに集まった人々の多くが、朝に発令された集会の禁止を知らなかったといいます。

しかし、ダイヤーは、そこに集まったインド人が禁止事項を意図的に破り、集会を行っていると判断したということになっています。連日続いていたジャイプール内での暴動もあり、政府側の緊張感もピークに達していたのかもしれません。

また、ジャリアンワーラー・バーグに集まった群衆の多くが、の非暴力の運動に賛同する人々であったことも知らなかったということです。イギリス側としては、この当時のインド人の抗議集会はどれも同じ「危険なもの」と認識されていたため、こうした認識になったことがいえます。

ではダイヤーは、なぜ、発砲を許可したのでしょうか。単純に軍に驚いた群衆がパニックとなり、出口に殺到したことに、ダイヤーがパニックになって発砲を許可したのでしょうか。それとも、意図的なものであったのか。

次の記事では、虐殺後の、著名人やダイヤーの反応についてみていきます。

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虐殺が起きた一番の要因は、軍の指揮官であったダイヤーであったことがよくわかります。
特にパンジャーブ州における反英運動は激しかったといいます。