アムリットサルの虐殺②:事件直前の現地の状況

アムリットサルの虐殺②:事件直前の現地の状況

前回の記事では、いわゆる治安維持法とされる「」などが、インド社会に与えたインパクト、そして当時の社会情勢をみてきました。アムリットサルの虐殺が起きた当時、イギリス政府がインドで盛り上がりはじめた民族運動への対処へ苦心し、悪い方向へと進んでいきます。

今回は、アムリットサルの虐殺が起こる直前までの、現地パンジャーブ州の状況を追っていきます。

1.パンジャーブ州で多発したテロ行為と社会状況

3月、イギリス植民地政府による「ローラット法」の施行は、民族主義に目覚め始めたインド人の意識を、大いに刺激するものになりました。

前記事でも指摘したように、インド国内の民族主義者による反英闘争を弾圧することを目的としたこの法は、報道規制、不当逮捕・拘留、裁判の証拠の非公開、有罪者の政治・教育・宗教活動の参加を禁止しています。インド中でこの法案への反発は高まりましたが、特にパンジャーブにおける反英運動は激しかったといいます。

鉄道、電信、通信システムは混乱し、治安は悪くなり、状況は急速に悪化していきました。4月以降も、こうした政府と反英の運動の対立続きます。4月第1週の週末、ラホール市には約2万人の群衆が通りを埋め、イギリスに対峙するシュプレヒコールを上げ、大きな衝突が起きかねない事態となっていました。政府は実際に、インド大反乱(1857~59、シパーヒーの反乱)のような組織的な大反乱になるのではないかと危惧をし、軍を配備ています。アムリットサルの虐殺の直前に起きたこのラホールのデモは、政府の危機感・緊張感を著しく高め、その結果、虐殺が起こってしまったのだとする説が多く挙げられています。

さらに4月10日、アムリットサルの副長官マイケル・アービング氏の住居前に人々が集まり、デモが行われました。このデモの要求は、直前に逮捕されたインド独立運動の指導者2人(ガンディーサティヤーグラハ運動の支持者)の解放というものでした。しかし、先日行われたラホールのデモの後で、イギリス側も極度の緊張状態であったため、退去要求をのまないデモ隊に向けて発砲、数人を殺してしまうという事態になります。

これに激怒した民衆は暴動を起こし、イギリスの銀行を放火し、数人のイギリス人を殺害し、イギリス人女性2人を襲うという暴動に発展しました。

この暴動が起きた翌11日、イギリス人女性宣教師が、学びに来たインド人の子供たちを家に送った帰り、インド人の暴徒に襲われ、裸にされ、徹底的にリンチを受けるという事件が起きています。

11日、12日も、パンジャーブ州各地で暴動が続きました。鉄道が止まり、電柱が破壊され、政府の庁舎が放火され、3人のヨーロッパ人が殺されたといいます。こうした中、4月12日の夜、アムリットサルガンディー支持の民族運動指導者たちは会議を開き、翌13日18時30分から、ジャリヤーンワーラー・バーグで抗議集会を開くことを決めます。

この集会は、あくまで非暴力の平和的な抗議をするためであったことは注意する必要があります。

この抗議集会が虐殺の現場となります。

2.事件直前のジャリアンワーラー・バーグ

1919年4月13日午前9時、イギリス准将R.E.H.(虐殺の際に軍の指揮を執った人物)は、アムリットサルにおける通行許可制度の実施、夜20時からの外出禁止令、4人以上の集会の禁止を発表します。これはいわゆる戒厳令にあたります。この発表は英語をはじめ、現地の言葉でされましたが、人が集まる主要な場所で行われたわけではなく、周知の徹底をしなかったため、ほとんどの人が知らなかったといいます。

一方、地元警察は、徐々に集まり始めた群衆の理由が、ジャリヤーンワーラー・バーグでの抗議集会であることを知り、対応を迫られます。このことがイギリスの准将ダイヤーに報告されたのは、午後1時ころだったといいます。

午後に入ると、早くも数千人がアムリットサルのゴールデンテンプルで礼拝をしたあと、ジャリアンワーラー・バーグに集まり始めました。ジャリアンワーラー・バーグは、約7エーカー(28,000㎡)の大きさで、周囲を約10フィート(約3メートル)の壁で囲われた庭園で、出入り口は1つ(他の出入り口は鍵がかけられ通り抜けできなかった)しかない場所です。

この庭園は、1年の大半を地元の集会やレクリエーションの場として、庶民に親しまれていました。庭園の中心には、火葬場と直径約20フィート(約6メートル)の大きな井戸があります。当時、アムリットサルでは牛や馬の品評会が行われていたため、そのために多くの人々が訪れていましたが、政府により品評会は強制的に閉鎖、散会させられたため、ジャリアンワーラー・バーグに追いやられた人も多かったといいます。

准将のダイヤーは、群衆の規模を6,000人ほどと推定しましたが、実際には1~2万人が集まっていたといわれています。

しかし、ジャリアンワーラー・バーグに集まる人々を阻止したり、散会させようとすることはなく、事件後に問題となっていきます。そしてダイヤーは、ジャリアンワーラー・バーグに軍を集結させ、悪名高い事件が起きます。

3.アムリットサルの虐殺②:事件直前の現地の状況のまとめ

イギリス政府の立場としては、民族主義の台頭によって不安定化するインド社会を抑えるため、安定化のために「ローラット法」を施行しました。

しかし多くのインド人は、この治安維持法を社会の安定のための法ととらえず、インド人弾圧のための法ととらえ、反発をします。

そして、この反発で大きく分けて、2種類の動きがインド人の間で起こります。

  • ガンディーの推奨する非暴力抵抗運動
  • 過激派による暴力的運動

パンジャーブ州では、この2つの系統の運動があり、政府の間ではどちらが非暴力的運動かという理解はなかったようです。

虐殺直前に暴動が起き、イギリス人が犠牲となったのも、取り締まるイギリス側の恐怖心を煽る結果となりました。このまま放置すると、インド大反乱のような問題になりかねない、という認識になったといいます。

この混乱の中、イギリス政府側とインド人指導者の話し合いがされることもなく、相互に不信感・緊張感を高め合う状況になってしまったことが、虐殺につながったといえます。

次の記事で、虐殺とその数について書いていきます。

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市民との間に認識のギャップが生まれ、虐殺は起きることになります
パンジャーブ州アムリットサル市内で起きた、インド軍による非武装市民の虐殺。