アムリットサルの虐殺①:ベンガル分割令とローラット法の影響

アムリットサルの虐殺①:ベンガル分割令とローラット法の影響

アムリットサルの虐殺(Amritsar Massacre)は、1919年4月13日、パンジャーブ州アムリットサル市内で起きた、インド軍による非武装市民の虐殺です。男性、女性問わず、軍によるライフルの乱射により、約400~1,500人が殺され(諸説あります)、1,000人以上の負傷者を出しました。

世界史にも必ず出る事件なので、ご存じの方も多いのではないでしょうか。

今回は、アムリットサルの虐殺が起こるに至る、当時のインドの社会状況を解説します。

1.ベンガル分割令と反英運動の活発化

インド大反乱(シパーヒーの反乱)の制圧以降、イギリスは「イギリス領インド帝国」として、帝国主義的支配を強めていきます。

イギリスはインド統治を補助する役割として、インド人による国政政党である国民会議派を設立しました。しかし、たびたび起こっていた反英活動弾圧の強化が、インド人の民族意識を向上させることになります。

そうした状況の中、イギリスは、湧き上がりつつあった民族意識を違う方向に向けるため、宗教対立を煽る手法に出ます。それは、ヒンドゥーとムスリムの対立を利用する分割統治であり、その典型例が「ベンガル分割令」です。

1905年、インド総督のカーゾンは、ベンガル州を東西に分割します。カーゾンは、行政効率を上げるためと表向きは話していましたが、ムスリムの多い東部と、ヒンドゥーの多い西部を分けることで、反英闘争の分断を図ったのでした。

こうした露骨な植民地政策は、反英運動の激化を招くことになります。

徐々に反英運動が活発になる中、従来は植民地政策に親英的立場をとっていた国民会議派では、多くの民族主義者が台頭し、英貨排斥、スワデーシ(国産品愛用)、スワラージ(自治)、民族教育をスローガンにした、反英運動を展開していくことになります。その後、インド政府の介入により、こうした動きは鈍化しますが、一連の流れはインド人の民族意識と自治を求める、大きな契機となっています。

その後、第一次世界大戦の影が近づき、世界情勢が不安定化したため、混乱を終息させるために1911年12月、ベンガル分割令は撤回されています。そして、意思統一された反英運動は下火となっていきましたが、一部過激化したグループの反英運動も散見され、社会主義の影響を受けた人々が増え、インド総督府を狙ったテロ事件も増えてきました。

そうした中、施行された法が「インド防衛法」です。

これは治安維持法にあたり、インド人の政治活動の制限や、当局の考える「危険人物」の摘発、拘束を可能にしました。この法は時限立法であったため、1919年にこうした性格を引き継いだ「ローラット法」が施行されます。

2.ローラット法

第一次世界大戦(1914~1918)で、インド人は戦死者7.4万人を出し、インド国内は、インフレやインフルエンザのパンデミックが起こり、苦しみに打ちひしがれる状況でした。

そうした社会状況の中、1919年3月21日に議会で可決された「ローラット法」は、正式名称を『無政府・革命分子犯罪取締法(Anarchical and Revolutionaly Crimes Act)』といいます。

「ローラット法」では、以下のことを強制しています。

  1. 政府による報道の管理
  2. 逮捕状無しの逮捕
  3. 裁判なしの無期限の拘留、投獄
  4. 裁判で示された証拠の非公開
  5. 有罪者の政治的、教育的、宗教的活動への参加禁止

この法は、インド国内の民族主義者による、反英闘争を弾圧することを目的に施行され、逮捕状無しの逮捕や、裁判手続きなしに拘束、投獄、そして民族運動への徹底した弾圧を可能とする治安維持法です。1919年3月、議会に法案が提出され、インド人議員全員が反対しましたが、強制採決され施行にいたっています。

ローラットは、当時のインドの治安状況の調査に任命された委員長であり、その名をとって法律に冠せられ、通称となっています。この調査では、インド国内民族主義の過激派が、アフガニスタンのインド侵攻を手引きしている可能性などが調査され、実際に1919年5月、第3次アフガン戦争が開戦しています。

この法はそうした中で施行され、一時は下火になっていた民族意識に再び大きな火をともし、インド人の反英感情を高める契機となりました。政治不安や混乱した社会状況の中、カリスマ性を発揮し、急速に民衆の支持を集めたガンディーは、4月6日から第1次サティヤーグラハ(非暴力抵抗)闘争を展開し、その運動は全インドに広まっていくことになります。

ガンディーの非暴力的運動は多くの人々の支持を得ましたが、一部の人々、過激派は、テロや暴力でイギリスと戦いました。政府による不当な暴力で、家族を失ったインド人も多かったといいます。

アムリットサルの虐殺の舞台となったパンジャーブ州も、そうした過激派の活動が多く、政府からも厳しく調査されている地域でした。

そして1919年4月13日、運命の日が訪れます。

3.アムリットサル(アムリッツァル)の虐殺①:虐殺が起きた当時の社会状況のまとめ

アムリットサルの、虐殺前夜時の社会状況を追ってみました。当時のイギリス支配は、第1次大戦を経た混乱もあり、インド人にとり、大変厳しいものとなっていました。

こうした状況下に、油をまいて火をつける形となったのが「ローラット法」です。この法への反発は、インド各地で起きました。暴動も起きていたため、イギリス政府も、インド人の集会に危険を感じていたという実情もあるようです。

この反発の特に大きかったのが、パンジャーブ地方といわれています。イギリス人とインド人の衝突が起こり、互いに死者を出す状況となり、緊張感は急速に高まっていきます。こうした状況の中、アムリットサルの虐殺は起きます。

次回の記事では、虐殺発生直前の、パンジャーブ州の状況を見ていきます。

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特にパンジャーブ州における反英運動は激しかったといいます。
旧ソ連を除くヨーロッパ全体に匹敵する面積で、1辺が約2000kmの巨大な菱形をしています。