不可触民の仏教改宗運動⑤:仏教への集団改宗

不可触民の仏教改宗運動⑤:仏教への集団改宗

前回の記事では、インド共和国憲法制定の過程と、アンベードカルが行った、ヒンドゥー社会で最も忌避される逆毛婚について紹介しました。不可触民差別解消に向けて尽力してきた彼ですが、その限界から内閣を離れ、改宗へ向けた動きを活発化させていきます。

今回は、憲法制定後の動きから、仏教に関するアンベードカルの考え、そして1956年に行われた、参加規模30~60万人といわれる、仏教への集団改宗を中心に紹介します。

1.憲法施行後の動き

アンベードカルは憲法の施行後も、不可触民の地位向上のため、ヒンドゥーの社会改革に繋がる法案の成立を目指します。が、ことごとく国民会議派に邪魔をされ、思うような成果を出せずにいました。

こうした状況にアンベードカルは激怒し、しばしば罵声を浴びせるなど、閣僚内で浮きあがることとなり、法務大臣を辞職することになります。

辞職の際、アンベードカルは次のように、その理由を指摘しています。

  • 首相であるネルーは、ヒンドゥーの社会改革に弱腰で、アンベードカルを助けることなく孤立化させた
  • 不可触民対策への、政府の取り組みの甘さが不満であった
  • ネルーの親共産主義的外交政策(アンベードカルは親米)は誤っている

閣僚辞任後、アンベードカルはヒンドゥー教批判を、さらに強めていきます。そして1951年、彼はインドにおける仏教の復興に、余生を捧げることを宣言します。

こうした動きの中、1953年、「不可触民制犯罪法」が成立します。これにより、憲法で定められた不可触民差別の廃止条項に、法の強制力、罰則(不可触民差別を行う者に対し、投獄・罰金・営業許可取消)を与えることになりました。

2.アンベードカルの仏教観

それまで、インド国内の政争の中心に位置し、宗教改宗問題に取り組む余裕のなかったアンベードカルは、法務大臣辞任後、本格的に、仏教への改宗に向け動き出します。

彼は、個人で改宗するのではなく、不可触民全体の動きとして、改宗することが望ましいと考えました。そのため、各地で開かれる講演の度に、不可触民の解放のためには仏教が必要であると述べ、不可触民の教化のための活動を、活発化させていきます。

アンベードカル仏教について語った例を、いくつか紹介します。

①女性解放を行ったブッダ

  • インドの女性蔑視は、ヒンドゥー文化によって形成されてきたが、ブッダの登場により、女性に学ぶ自由や権利、尊厳を与え、多くの女性の支持を集めた。
  • ヒンドゥー社会は女性解放を恐れ、『マヌ法典』により法制化・強制化を進め、女性を閉じ込めてきた。

②インドの救済は仏教にある

  • ヒンドゥー社会にはびこる暴力、不道徳、腐敗などは、すべてヒンドゥー教に起因する。
  • そのため、インドの真の救済のためには、すべてのものが仏教に帰依する必要がある。

③仏教の復興

④ヒンドゥー教の拒絶

  • 近い将来、人類は仏教の福音か、マルクスの福音の2択をする。
  • ヒンドゥー教の聖地を巡礼することは無駄であり、そうするものは仏教コミュニティから追放する。

アンベードカルは、ヒンドゥー文化を悪とし、仏教を全人類への救いの道であるとしています。ヒンドゥー教に失望し続けた彼にとり、もはやヒンドゥー文化は害悪でしかなかったのでしょう。

そして、集団改宗へと向かいます。

3.仏教への集団改宗

1956年、この年は東南アジアや南アジア各地で「2500年祭」が祝われた年でした。

その祭に合わせ、アンベードカルは自身をモーゼになぞらえ、同年10月に、無知なる大衆を導くべく、仏教への集団改宗を、マハーラーシュトラ州ナーグプルで行うことを発表しました。ナーグプルは、アンベードカルの所属するマハールの人口密度が最も高い地域の中心都市で、アンベードカルによる集会がたびたび行われてきたね彼の活動の中心地でした。

そして改宗前夜、アンベードカルは次のように述べています。

  • アンベードカルの選んだ仏教は、大乗・小乗仏教以前の、ブッダによる初期仏教である
  • インド社会に最も影響の少ない方法で改宗すると、ガンディーと約束したように、インド文化の一部である仏教を選び、インドの文化・歴史を尊重した
  • 今後10~15年の間に、仏教への集団改宗の波は全インドに広まり、インドは仏教国となり、多くのヒンドゥー教徒が改宗することになるであろう

このようにアンベードカルは、仏教への集団改宗に、自信をもっていたことがわかります。

同年10月14日、ナーグプルの会場には白いサリー、白いシャツを着た老若男女、約30万人(50~60万人との説もあります)が集まりました。この会場に集まったほとんどが、アンベードカルの所属する、マハールカーストの構成員でした。

檀上では、アンベードカル夫妻が代表して、仏教への帰依の儀式が行われ、仏教への改宗が告げられると、アンベードカルブッダを讃える、大きな歓声が上がったといいます。

儀式が終わると彼は、会場の人々に次のことを語り、壇上から同意を求めています。

  • 不平等と迫害に追われた、かつての宗教を棄て、我々は生まれ変わった
  • ブッダをヴィシュヌの化身という、ヒンドゥーの伝説は誤りであり、有害である
  • 今後、一切のヒンドゥー教の信仰を行わず、ブッダ八正道(自己を完成させる8つの正しい道)を遵守する

これに対し、その場にいた群衆は一斉に立ち上がり、アンベードカルに改宗の宣誓をしました。その場にいた30~60万といわれる人々が、一斉にとったその行動は、壮観であったといいます。

こうして、アンベードカルが改宗を宣言した22年後に、不可触民出身者による集団改宗が達成されました。

かれらは従来の仏教徒と分けられ、一般的に「仏教(Neo Buddhist)」と呼ばれています。かれらの多くがマハールカースト出身であることが周知のため、仏教徒=マハール(不可触民)として認識されてしまっていることが、要因のようです。

この集団改宗の問題は、多くの不可触民の参加はありましたが、ほとんどの不可触民マハールカーストであったことでしょう。他の不可触民カーストとの連携が思い通りにいかなかったことが、その後の「新仏教徒」の拡大の足かせとなったと、多くの指摘がされています。

4.不可触民の仏教改宗運動⑤:のまとめ

集団改宗の動画があったので紹介します。当時の雰囲気を感じられるのではないでしょうか。

この集団改宗が、当時のインド社会に与えたインパクトは大きく、不可触民問題を再認識させる、大きな契機となったといわれています。

次回の記事では、集団改宗後のアンベードカルと、その後の仏教改宗運動の動きを中心に紹介していきます。

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いずれの宗派においてもブッダとともに、アンベードカルは崇拝の対象となっています。
政権与党国民会議派政権の初代法務大臣として、不可触民の地位向上のために尽力していきます。