不可触民の仏教改宗運動③:アンベードカルによるヒンドゥー教棄教宣言

不可触民の仏教改宗運動③:アンベードカルによるヒンドゥー教棄教宣言

前回の記事では、アンベードカルの指導した、不可触民の地位向上のための運動や、ガンディーとのやり取りをみました。

アンベードカルに敵意を向けられるガンディーですが、彼も不可触民の地位向上のために動いています。

今回は、ガンディーの不可触民への動きと、それに対するアンベードカルの評価、そして地位向上のために、ヒンドゥー教を捨てる決意をした流れを中心に、みていきます。

1.ガンディーによる不可触民解放運動

アンベードカルをはじめとした不可触民からの不満への対処として、ガンディーによる不可触民解放運動は、1932年頃から本格的に展開していきます。この運動をマネジメントする組織「ハリジャン奉仕者団(この名称となるのは193)」を立ち上げ、ヒンドゥー教徒代表者集会で、不可触民差別の廃止と速やかな法制化を決議しました。

ガンディーは不可触民解放のために、従来は禁忌とされてきた寺院、井戸、教育などの解放・サポートを宣言しています。これらを達成するための唯一の手段は、ヒンドゥーの人々へ平和的説得をもって、理解してもらうことのみだとしています。

ヒンドゥーの人々への同意も得られやすいように、ガンディーは以下の点で釘を刺しています。

ガンディーは不可触民差別を、ヒンドゥー社会のモラルの問題と考えており、それを糺すのは不可触民自身でなく、ヒンドゥー社会の人々だとしています(シュードラが入っていないのは、シュードラもヒンドゥー社会で、不当な差別を受けてきたからと考えたためです)。そのため、ハリジャン奉仕者団の中枢メンバーに不可触民などはおらず、「問題を作ってきた再生族によって糺されるべき」と考えられ、排除された形になっています。

ガンディーが不可触民を指す言葉として使っている「ハリジャン」という言葉は、元来「神への帰依者」という意味で使われていた用語です。ガンディーはそれに「不可触民」という意味も加えることで、不可触民の「穢れた」イメージの向上を図ったということです。

こうしたことを踏まえ、不可触民差別問題の解決に向け、ガンディーはインド各地を周り、啓蒙活動を行っていきます。

2.アンベードカルの考えるガンディーの不可触民解放運動が失敗した理由

ガンディーの不可触民への運動は、確かに、人々に「不可触民差別」は悪い慣習という「意識」を与えることには成功しました。が、そこで止まってしまいました。例えば、不可触への寺院解放も行われましたが、実際に不可触民に解放された寺は廃寺であることが多く、こうした「口先だけ」の運動は、アンベードカルに批判されています。

また、アンベードカルは「ハリジャン」という呼称を拒絶し、「神の子」という甘い言葉は、ガンディーたちの自己満足でしかないと切って捨てました。

ガンディーが長年にわたり展開してきた不可触民解放運動が失敗し、井戸や寺院が不可触民に解放されることがなかった理由として、アンベードカルは次の3つをあげています。

  1. ・ヒンドゥーは、不可触民解放運動をガンディーの道楽としてみていたため、ガンディーの社会改革への訴えは訴求力に欠け、ガンディーの要求に応じることはなかった
  2. 不可触民制廃止を断固として求めることは、カースト・ヒンドゥーとの対立を生むと考えたために、口先だけの働きかけとなり、ガンディーの求心力を維持するために、不可触民の利益を奪うことすらあった
  3. ガンディーが「ハリジャン奉仕者団」の設立により、その甘言(かんげん)で不可触民独立心を奪い、奴隷根性を与えたことは、不可触民の権利獲得にとって障害でしかなかった

アンベードカルは、ガンディーのことを徹底的に批判し、「ガンディーには気を付けろ」と注意喚起をしています。まるで詐欺師のような扱いです。

彼は、こうしたガンディーや会議派の態度により、不可触民の地位向上のためには、ヒンドゥー教を棄てる必要があると考えるようになります。

3.地位向上のためにヒンドゥー教を棄てる

アンベードカルは、不可触民に対してはヒンドゥー教で忌避される食習慣を変更するように求め、カースト・ヒンドゥーに対してはヒンドゥー寺院の立ち入りを解放するよう要求するなど、ヒンドゥーの社会の中で、不可触民カースト・ヒンドゥーと同等の地位を得るための運動を率いてきました。しかし、彼はヒンドゥー教の指導者であるガンディーたちの非協力的な態度に、ヒンドゥー教そのものに不信感を募らせていきます。

そして1933年、他の宗教への改宗をする決意をしたことが、当時の書簡に記されています。

1935年10月、約1万人が参加した不可触民の集会で、アンベードカルは次のように語ります。

  • 従来の他のヒンドゥー教徒と同等の地位を得ようとする運動は、時間の無駄だった
  • ヒンドゥー教徒として死ぬつもりはなく、不可触民を平等に扱う宗教を探す

こうして、アンベードカルのヒンドゥー教徒としての運動は、終わることとなります。この改宗の呼びかけは、インドの全不可触民に対して行われました。

しかし、アンベードカルの所属するマハールカーストと他の不可触民の間の連携は、盛りあがることにはなりませんでした。

アンベードカルは改宗宣言以降、さまざまな宗教から勧誘を受けましたが、決めかねていました。一時期はシク教に興味を持っていたアンベードカルですが、1938年当時、キリスト教と仏教を改宗先の候補に絞っていたといいます。

その後の政争もあり、仏教への改宗を決めたのは1950年頃で、1956年に集団改宗をすることになります。

4.独立を見据えたアンベードカルの動き

1940年代に入り、イギリスからの独立の動きが本格化すると、アンベードカル不可触民の権利獲得のため、動きを活発にします。

彼はイギリス政府への直談判によって、不可触民への留保議席の拡大や、権利の保障などを要求しましたが、思うような反応を得ることはできませんでした。独立間近のインドの混乱期に、不可触民の保護のために動く余裕が、イギリス政府にはなかったようです。

行き詰まりを見せたアンベードカルに、長年対立関係をとってきた国民会議派が、手を差し伸べることになります。会議派は、挙国一致内閣を印象づけるため、アンベードカルに白羽の矢を向けた形です。

アンベードカルはこれを受け入れ、インド独立後の初代法務大臣に就任し、憲法起草委員会の委員長として、政権の中から不可触民の権利保障、地位向上のため、懸命に活動をしていくことになります

このアンベードカルを推薦したのは、長年敵対してきたガンディーであったことには、驚きを感じます。

アンベードカルはこれ以降、独立過程の政争に巻き込まれ、宗教改宗問題に取り込む余裕はなくなっていきます。

5.不可触民の仏教改宗運動③:アンベードカルによるヒンドゥー教棄教宣言のまとめ

アンベードカルからは、全否定されたに近い形となっているガンディーの不可触民地位解放運動ですが、不可触民差別が問題であるという認識を、インドに広めた功績はあります。ただ、そこで止まり、アンベードカルの要求をことごとく反対したことが、アンベードカルの怒りをかったようです。

長年の差別に苦しみ、時には一方的な暴力による死者が出ることもあった状況なので、アンベードカルの使命感は相当のものがあったのだと思います。

そしてヒンドゥー社会を見限ることになるのですが、独立期の政争に巻き込まれていきます。ただ、そこでもアンベードカルは、不可触民差別解消のための憲法草案の作成や法制化などに務め、多くの妥協を強いられることになりますが、憲法に不可触民制を否定する文言を記すことに成功します

次回の記事では、「インド共和国憲法」制定におけるアンベードカルの動きや、ヒンドゥー教徒からの改宗を決意した彼がとった、ヒンドゥー社会で「最悪」とされる行動を中心に紹介します。

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政権与党国民会議派政権の初代法務大臣として、不可触民の地位向上のために尽力していきます。
シュールな映像が世界中で報道されています。