不可触民の仏教改宗運動②:アンベードカルの社会改革運動

不可触民の仏教改宗運動②:アンベードカルの社会改革運動

前回の記事でみたように、イギリスの分割統治によって、不可触民は国政において留保議席を与えられることが決まりました。それにより、「政治集団」としての不可触民は影響力をもち始めます。

1917年に行われた国民会議派による「不可触民制撤回決議」のように、不可触民の懐柔、取り込もうとする動きが起こるとともに、不可触民サイドも要求を始めます。こうした状況下、アンベードカルは表舞台に登場します。

今回は、アンベードカルが開始した社会改革運動と、ガンディーとアンベードカルの互いの批判を中心にみていきます。

1.アンベードカルによる反不可触民運動の開始

1918年3月、国民会議派は「反不可触民制宣言」を出しましたが、ティラクをはじめとした会議派有力指導者たちは、この宣言への署名を拒んでいます。

アンベードカルは、こうした会議派の動きを冷ややかにみていました。彼は、不可触民差別が古来から続いてきた理由として、カースト制度をあげています。

カースト制度が不可触民差別を作り、カースト間で行われてきた内婚制度がその差別を固定化してきたため、その内婚制度を破壊することが、カースト制度を破壊することに繋がると、多くの場所で語っています。

当時のアンベードカルは、アメリカ留学を経、知識・教養のある不可触民として一目置かれ、折に触れイギリス政府や、権力者たちに意見を聞かれる機会を得ていました。

当時のアンベードカルの動きを、4つ紹介します。

①不可触民の留保議席枠の拡大の要求

1919年に公布される「インド統治法」のため、イギリス植民地政府の選挙委員会に招かれたアンベードカルは、人口比に応じた不可触民の留保議席を求めました。

アンベードカルは9議席を求めましたが、不可触民に与えられた留保議席は1議席(のち2議席)に留まっています

②反不可触民制の立場をとる雑誌を刊行

1920年、アンベードカルは、不可触民制やカースト制度撤廃運動を主張するため、隔週の雑誌を刊行し、以下の持論を述べています。

  • 不可触民は永久的な奴隷状態を強いられており、不可触民を教化することで、貧困・無知から救わなければならない
  • イギリスの保護がなければ、間違いなく不可触民差別はより酷いものへとなっていた
  • 不可触民基本的人権を与えられなければ、インドが自治を獲得しても、不可触民にとっては新たな奴隷制が始まるだけである

③不可触民差別への抗議のデモの指揮

1923年、ボンベイ政府は、公共の貯水池の不可触民への解放を決議しましたが、カースト※によって拒否され続け、実行を伴わなかったことに対し、1927年、アンベードカルはデモを率いて抗議活動をします。アンベードカルの出身カーストであるマハールを中心に、約1万人が集まり、貯水池の水を飲むという示威行動が行われました。一方、カースト・ヒンドゥーは、貯水池が不可触民によって穢されたとみなし、浄化の儀式を行い、不可触民のさらなる反発を招きました。

アンベードカルは、差別の元凶はヒンドゥーの古代聖典『』にあるとし、大衆の面前で『マヌ法典』を焼き捨てるという行動に出ます。この行為は多くのインド人にショックを与え、「不可触民問題」を認識させることに大きく寄与し、アンベードカルの意図通りになったといいます。

このデモを率いたアンベードカルの一連の行動により、アンベードカルの知名度は全インドに広がることになります。

また、アンベードカル不可触民たちに対し、ヒンドゥーの文化で忌避される食文化(牛の屍肉※を食べるなど)や労働を、止めるように教化を始めます

④英印円卓会議への参加

1930年1、イギリス政府は、インド諸団体の代表とイギリス統治について議論する場として、ロンドンで円卓会議を開催しました。アンベードカル不可触民の代表として、この会議に参加します。不可触民が、国家の重要な会議に参加するのは、歴史的に初めてのことだといわれています。

この会議で、アンベードカルが主張したのは以下のことです。

  • イギリス政府は、インドの社会改革に取り組もうとはせず、不可触民に冷淡な対応をした
  • インド独立の際の憲法に、不可触民を保護する条項を記し、差別者を罰する方を作るべき
  • 立法府・行政府・官職において、不可触民出身者の枠を一定割合で留保すべき

会議に参加した諸団体は、このようなアンベードカルの主張に協調し、政治的に独立したマイノリティ集団として、不可触民に特別な保護を加えることに合意をしました。

2.ガンディーとアンベードカル、不可触民観と互いの批判

アンベードカルは当初から、ガンディーに対し批判的立場をとり、ガンディーもまた、アンベードカルの姿勢を非難しています。

ここでは、不可触民を巡る互いの主張と非難をみてみましょう。

①ガンディーの不可触民への言及、アンベードカルへの批判

  • 反英運動の成功には「1つのインド」が必要であり、そのためにはカースト・ヒンドゥーの一員である不可触民の協力が必須である
  • 不可触民への差別は、ヒンドゥー文化やカースト制度の問題ではなく、社会のモラルの問題であり、人々を教化すれば差別はなくなる
  • 不可触民は、イギリス政府への協力や他の宗教への改宗をすべきでなく、不可触民制廃止のためには、インド人の自治(スワラージ)が必要で、会議派に協力するべき
  • 国民会議派はすべてのインド人を代表する団体であり、イスラムやシクへの政治的留保枠は同意できても、ヒンドゥー教徒である不可触民に与える必要はない
  • 私の意見は不可触民すべてを代表するものであり、アンベードカルの意見は一部の不可触民の意見でしかない

②アンベードカルの不可触民への言及、ガンディーへの批判

  • 不可触民は犬猫以下の扱いを受け続け、水さえ拒まれてきたため、会議派の主張する「1つのインド」などはなく、そのような国を祖国とは思えない
  • 不可触民カーストの外に置かれ、差別を受け続けたのだから、外部のマイノリティとして特別保護(留保)枠を設けるのは当然である
  • カースト制度が不可触民差別を固定化しており、カースト間で行われてきた内婚制度を破壊することが、カースト制度を破壊することに繋がる
  • ガンディーは独善的かつ狡猾であり、不可触民の公然の敵である
  • ガンディーはしばしば、不可触民の地位向上を会議派の中で主張するが、実際には口にするだけで、資金捻出など不可触民側の要望にまったく応えようとしなかった
  • ガンディーは「口先だけの同情者」であり、不可触民問題を取り上げることも「けちな見せ物」として扱っただけだ

ガンディーとアンベードカルは互いに批判的な言葉を浴びせていますが、アンベードカルはガンディーへの嫌悪感を露わにしているように見えます。こうした関係は続き、独立に際しての不可触民の憲法上の扱いなど、さまざまな場面で対立を繰り返していくことになります。

また、ガンディーは不可触民への特別枠・留保議席を要求するアンベードカルに対し、たびたび抗議の「死に至る断食(ハンガーストライキ)」を起こします。これにより、ガンディーはアンベードカルの譲歩を幾度となく引き出すこととなり、アンベードカルはやりきれない気持ちになります。

ちなみにアンベードカルはガンディーの断食を用いて譲歩を引き出させる手法を、「きたないやり口」と批判しています。しかし、もしハンストの結果、ガンディーが死んでいたら、不可触民の大量虐殺が起きていたと容易に想像できたと、アンベードカルの妥協を擁護する声が、不可触民からも上がっています。

3.不可触民の仏教改宗運動②:アンベードカルの社会改革運動のまとめ

アンベードカル不可触民地位向上のための運動は、当初はヒンドゥー教という枠組みの中で行われ、カースト・ヒンドゥーに嫌悪感を抱かれる慣習を行わないなど、うちからの変化も試みられました。しかし、ヒンドゥー社会で固定化された差別を拭うことは容易ではなく、ガンディーをはじめとするヒンドゥーの指導者の煮え切らない姿勢も、アンベードカルを苛つかせました。

次の記事では、ガンディーが行った不可触民の地位向上運動と、それに対するアンベードカルの痛烈な批判、そしてヒンドゥー教からの改宗宣言などを中心にみていきます。


カースト・ヒンドゥーは、研究分野などで「バラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャ、シュードラ」を指す言葉として使われています。「ヒンドゥー教徒」では不可触民も入ってしまうので、ここではこう呼んでいます。他に四種姓(ししゅせい)という言い方もあります。「不可触民以外のヒンドゥー教徒」ということです。

※「屍肉」(しにく)は不可触民の仕事を解説する際によく出てくる言葉です。食べるために殺した動物からの肉ではなく、動物が死んでるから肉を食べる、といったイメージ。それが聖なる牛の肉でも食べるので「穢れた」存在となるようです。

BlogMuraFC2BlogRanking

VISITORS HERE:3,175, HOLI GREEN TOTAL VIEWS : 1,192,583

Previous(down)/ Next(up)
世界のほとんどの文明では、滅んだ原因は謎です。
不可触民は、カーストコミュニティの中で不浄と考えられる仕事を強いられ、公の場で侮辱的な扱いを受けてき…