不可触民の仏教改宗運動①:アンベードカルと植民地期の不可触民

不可触民の仏教改宗運動①:アンベードカルと植民地期の不可触民

ネオ・ブッディスト(新仏教徒)運動をご存知でしょうか。1950年代に、不可触民の指導者、アンベードカル(Bhimrao Ramji Ambedkar, 1891~1956)によって主導された、不可触民仏教徒への改宗運動です。1956年10月、この運動の結果、30~50万人の不可触民が、仏教徒へと改宗しました。

51年の国勢調査では、仏教徒の数は18万人とわずかな数でしたが、61年の国勢調査では325万人と、飛躍的に仏教徒の数は増えています。2011年の最新の国勢調査では840万人となっています。この仏教徒人口の急激な増加を成し遂げた最大の要因が、ネオ・ブッディスト運動です。

今回の記事から6回に分けて、この不可触民による仏教への集団改宗に至る過程についてみていきたいと思います。

今回は、植民地期のインド社会における、不可触民がおかれた立場から、不可触民指導者であるアンベードカルの生い立ちと、受けた差別を中心にみていきます。

1.インド社会における不可触民

不可触民は、カーストコミュニティの中で不浄と考えられる仕事を強いられ、公の場で侮辱的な扱いを受けてきました。

植民地期にも途切れることなく、伝統的に続いてきたカースト・ヒンドゥー(・クシャトリヤ・ヴァイシャ・シュードラ)による、不可触民への差別的慣習には、以下のようなものがあります。

  • カースト・ヒンドゥーと同じ井戸は使えない
  • カースト・ヒンドゥーと同じ寺院には行けない
  • カースト・ヒンドゥーの前で靴を履いてはいけない
  • カースト・ヒンドゥーと一緒に食事はできない
  • カースト・ヒンドゥーと結婚は出来ない

など多数あります。

社会的に抑圧された存在である不可触民は、こうした慣習を意図せずとも破る、カースト・ヒンドゥーによる暴行を受けるなど、酷い扱いを受けてきました。

ヒンドゥー社会が不可触民への差別を肯定的に捉える素地としては、ヒンドゥー教の輪廻思想があります。輪廻では、前世で積み重ねた業が、現世にあらわれると考えられます。

そのため、不可触民に生まれた人間は、前世で酷い行いを積み重ねた結果なのだから、現世で穢れた仕事を強いられるのは当然で、嫌われる、差別されるのも仕方のないことだ、となってしまいます。

2.アンベードカルの生い立ち

今回の一連の記事の「主人公」はアンベードカルです。不可触民出身のアンベードカルは、カースト制度を否定し、全インドを巻き込む社会改革運動を展開していきます。そして最後にたどり着いたのが、仏教への改宗です。

アンベードカルとガンディーのインド独立期におけるやり取りはバチバチしていて、従来のガンディー像とはまた違う見方ができるのではないかと思います。

この項では、そのアンベードカルの生い立ちから、植民地期当時の不可触民のおかれた状況をみていきたいと思います。

2-1.アンベードカルの生い立ち

アンベードカルは1891年、マディヤ・プラデーシュ州で不可触民マハールカーストの子として生まれます。彼の家庭は決して裕福ではありませんでしたが、学校に通うことができたため、他の不可触民と比べれば裕福な家ということができます。

アンベードカルには14人の兄弟がいましたが、9人が若くして死んでいます。

アンベードカルの父は、当時の不可触民としては異例の知識をもち、ヒンドゥーの古典『ラーマーヤナ』などに詳しく、英語も話せたため、幼いころからアンベードカルは熱心に教育を受けることになりました。

父が英語を話せる理由としては、植民地下の軍人としてイギリス政府に仕えていたためといわれています。

アンベードカルは学校において、不可触民であることを理由に、様々な差別的扱いを受けてきましたアンベードカルはクラスのすみに常にいるように言われ、教師もアンベードカルとのやり取りを拒むことがあったといい、授業を受けられないこともありました。水を飲む際も、水飲み場で飲むことができなかったため、クラスメイトから水を口に注いでもらうという形をとらされました。

この学校で受けた不可触民としての差別は、アンベードカルが差別へ立ち向かっていく原体験となっています。

2-2.海外留学

1913年、アンベードカルは当時暮らしていたバローダ藩王国により奨学金を得、アメリカのコロンビア大学に留学をすることになります。バローダ藩王のサヤージー・ラーオは、不可触民差別を否定的に捉えていたため、アンベードカルは支援を受けることができたようです。

留学中のアンベードカルは、多くのことに驚かされました。他の学生と同じシャワーを浴び、同じ食卓で食事を取ることができるといった平等な扱い、そしてアメリカで学んだ人権などの考えは、アンベードカルのその後の活動に大きな影響を与えました。

また、当時ニューヨークで行われていた黒人の地位向上運動に強い関心をもったといいます。そしてその後、博士号を得るまでになり、1917年インドへ帰国します。

帰国後のアンベードカルは、バローダ藩王国のために働くことになりますが、彼はここで大きな挫折を強いられることになります。アンベードカル不可触民であることを理由に、多くの宿泊施設から締め出され、職場では同僚から使用人にまで、「穢れ」を理由に拒絶されました。

住む場所を探すこともできなかったアンベードカルは、藩王国に奉仕することをあきらめ、ボンベイへと移ることになります。

この海外留学で経験した「平等」と、帰国後のインドで再体験した「差別」の落差は、インド社会で生きるアンベードカルに大きな絶望を与え、ヒンドゥー社会、カースト制度への大きな怒りを抱かせ、アンベードカルの活動の原動力になっていきます

次の項では、当時のヒンドゥー社会を代表する活動を行っていた国民会議派による、不可触民へのアプローチをみてみましょう。

3.1917年の国民会議派による「不可触民姓撤廃決議」

第1次世界大戦(1914~1918)は、インドに多くの死傷者をもたらし、植民地政策への不満が顕在化していき、インド人の自治を求める民族主義的運動が活発となる契機になりました。

当時の不可触民指導者たちは、こうした自治を求める運動に対し、イギリス政府に陳情を出しています。その陳情では、ヒンドゥー教徒から不可触民への抑圧と差別からの保護と、その支配の継続を求めています。ヒンドゥーによる支配・統治になると、不可触民の置かれる立場はさらに悪化する可能性があると考えたためです。当時の不可触民指導者は、一般的に親英という立場をとり、ヒンドゥー教徒を代表する国民会議派へは批判的姿勢をとっています

1917年、こうした状況を憂慮した会議派は、「不可触民制撤廃決議」を採択します。ここでは、被差別民が様々な困難と不自由が強いられてきたことを認め、あらゆる差別が取り除かれることが正義であると宣言されています。この会議派の動きは、イギリスによる分割統治政策により、不可触民が国会において留保議席を与えられることが決まったため、不可触民を「政治集団」として認識し、その懐柔の必要性を感じたためでした。

アンベードカルはこの決議を、批判的に見ています。

従来の会議派は、不可触民問題をはじめとした社会改革へ否定的立場をとってきており、この決議はただの政治的パフォーマンスに過ぎないとし、会議派は不可触民差別を解決する意思はないとしました。この口先だけの決議により、不可触民差別問題が真摯に議論される機会を失ったとの評価です。

インド国内の不可触民の置かれた立場に失望したアンベードカルは、社会改革運動の指導者として歩んでいくことになります。

4.ネオ・ブッディスト運動①:アンベードカルと植民地期の不可触民のまとめ

アンベードカルは、私が一番最初に興味をもったインド人です。独立期に「聖人」であるガンディーを、まるで悪人かのように批判をしまくるその様子は、私のガンディーの見方を変えてくれました。

今回紹介したのは、アンベードカルの若年期ですが、不可触民らしい差別のエピソードも多く、現代の不可触民差別が改善されていないことがよくわかります。

イギリスの分割統治によって、不可触民に国政における留保議席を与えられることが決まったことで、「政治集団」として不可触民は影響力をもち始めます。1917年に行われた国民会議派による「不可触民制撤回決議」のように、不可触民の懐柔、取り込もうとする動きが起こるとともに、不可触民サイドも要求をしていきます。

そうした社会状況の中、アンベードカルは頭角を現し、本格的に不可触民の地位向上のため、ヒンドゥー社会の改革運動へと踏み出していくことになります。

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