2002年のアーメダバードの暴動

2002年のアーメダバードの暴動

アーメダバードで起きた、大規模な暴動を紹介してきました。

1969年の暴動は、失業や貧困による社会不満を原因とし、1985年の暴動は、下層階層への留保政策を巡る対立に起因しています。

そして今回紹介する、3つ目となる2002年の暴動は、同年2月27日に起きたテロによる、電車の炎上事件に端を発したもので、従来のデモと同様に、ムスリムの被害が甚大となっています。

1.暴動の背景:ゴードラー駅電車炎上事件

アーメダバードは、ヒンドゥー・コミュニティとムスリム・コミュニティの衝突がたびたびあり、両者は社会的に断絶しているといわれています。その分断の象徴的な地域がジュハプラで、暴動が起きるたびに、大量のムスリムが流入し、人口は急増してきました。

2002年2月28日に始まった暴動には、きっかけとなる事件があります。2月27日に起きたテロ、ゴードラーの電車炎上事件です。

午前8時頃、ゴードラー駅近くで、Sabarmati Expressが突如炎上し、多数の死者と負傷者が出ました。この事件では、が死亡しています。

事件の電車には当時、ヒンドゥーの聖地アヨーディヤーへ巡礼した、多くのヒンドゥー教徒が乗っていました。

アヨーディヤーはヒンドゥー聖典『ラーマーヤナ』の主人公・ラーマ王子にまつわる聖地です。しかし、この聖地を巡って、ヒンドゥーとムスリムは、多くの死者を伴う衝突を起こし、多くのムスリムにとり、アヨーディヤーはヒンドゥーによる抑圧の象徴的なイメージとなっていました。

事件を起こしたのはイスラム過激派で、このヒンドゥー巡礼者が乗った電車を狙ったということです。事件の概要は、電車に乗った過激派の仲間が、緊急ブレーキをかけることで電車を止め、そこを2000人余りのムスリムが襲ったといいます。

事件後の警察の動きは早く、翌28日までに、51人のムスリムが放火・暴動・略奪の容疑で逮捕されています。

この事件を起こしたのがムスリムだという話は、瞬く間にアーメダバードに広まり、ムスリムへの憎悪は一気に爆発することになります。

事件直後の逮捕だったため、ムスリムへの偏見で逮捕した可能性もあるのかと思いましたが、この後の裁判で、有罪判決が出ているため、間違っていないようです。

2.2月28日

2月28日に始まる、6月までの暴動ですが、特に暴動初日の2月28日の被害は、グジャラート州の歴史の中でも、最も大きな被害を出した1日といわれています。この日の暴動は、公式にはナローダ・パティヤの虐殺(Naroda Patiya Massacre)と呼ばれています。

電車炎上事件の翌日、ムスリムが多く暮らす、ナローダパティヤ地区が、ヒンドゥーによって襲撃されました。約5000人のヒンドゥーが、両地区全域で暴れ、放火をし、逃げ惑うムスリムを暴行し、殺し、レイプしたといいます。ムスリムを囲い込み、1か所に集めたうえで、まとめて焼き殺したケースもあったといいます。また、公園に無理矢理女性を連れていき、集団でレイプを繰り返しするケースもあったといいます。

ナローダ地区のムスリムの家屋の、ほとんどが焼かれましたが、ヒンドゥーの家に被害はありませんでした。

この28日の暴動の死者数は、1日でとされており、グジャラート州で起きてきた、すべての暴動の中で、最悪の被害を出しています。

この一連のヒンドゥーの動きに際し、グジャラート政権与党BJPの指導者による扇動があったとの報告もあります。

28日の夜までに、夜間外出禁止令が出されています。

3.その後の暴動の広がりと州政府

28日以降、ムスリムへの暴力は、グジャラート州全域に拡大し、6月中旬まで続きました。は、3月1日までに軍隊の派遣をし、事態の鎮静化を図りましたが、事態は拡大し、鎮静化は難しい状況となりました。

2月28日から6月まで続いた暴動により、公式の発表によると1044人が殺害されており、790人がムスリム、254人がヒンドゥーとされています。行方不明者の数も相当数いるため、死者は5000人を超えているとの調査もあります。205のイスラムのモスク、17のヒンドゥー寺院、3のキリスト教の教会が、放火や破壊活動による被害を受けています。

当時のグジャラート州首相は、現国政の政権与党で首相である、ナレンドラ・モディでした。モディはヒンドゥー至上主義者を支持母体としていたこともあり、暴動の鎮静化に消極的だったのではないか、との指摘もされています。

モディは3月1日、28日に起きた虐殺は「(前日の電車炎上事件に対する)自然発生した怒りにより生じたもの」とし、批判はせず、さらに「大きな(2月27日のムスリムによるテロ)による事件であり、十分な抑制はあった(ヒンドゥー側はこれでも我慢した)」と話しています。また、州政府としては、一連の暴動に対し「ゴードラーの虐殺への自発的な反応であり、州政府や与党の関与はない」と話しています。

しかし、従来の暴動でもそうでしたが、ヒンドゥー至上主義者の扇動は、いたる所で報告があがっており、多くの批判があります。暴動のたびに、飛躍的に人口を伸ばしてきたアーメダバードのムスリムの地域、ジュハプラですが、この暴動を機に、人口50万人を突破しています。

1965年に建設されたこの地域は、当初、数千人のムスリムの貧困層向けのスラムとしてスタートしました。しかし、現在は多くのムスリムの流入(避難)によって、地価は上昇し、学校、病院をはじめ、さまざまな生活インフラが整っています。

現在は、この地域の中で、なるべく自給自足をしようとの運動もあるといいます。

4.2002年のアーメダバードの暴動

アーメダバードで起きた、大きな暴動を3つ紹介してきました。1969年、1985年、2002年と、ともに主な被害者はとなっています。

今回紹介した記事では、ムスリム過激派によるテロがきっかけとなり、この地域に鬱屈していたムスリムへの憎悪を爆発させた形になっています。

こうした地域では、憎しみが再生産され続けており、問題解決の日が来るのか、想像ができません。いつか問題が解決することを祈って、今回の記事を〆たいと思います。

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当初は6カ月ほどかかる予定の工事でしたが、わずか46日での復旧となっています。
ムスリムの死者は100人となり、2500軒の家が焼かれ、12000人が家を失っています。