1985年のアーメダバードの暴動

1985年のアーメダバードの暴動

今回は、前回の1969年のアーメダバードの暴動に続き、1985年に起きた暴動をみていきます。

前回の暴動は、失業問題など、社会不安に端を発する、ヒンドゥーとムスリムの衝突でしたが、今回の暴動は、上位カーストと後進階層の対立が、きっかけとなっています。

この地域は、ヒンドゥーとムスリムの対立も顕在化していますが、ヒンドゥー内部も不安定化していたのです。

1985年当時、どういった動きが当時あったのか、みていきましょう。

1.暴動の背景

1985年の暴動は、上位カースト後進階層(不可触民など)の間で起きた、衝突に端を発しています。

当時、どういった背景があったのでしょうか。

1970年代に入り、地価上昇、新事業の成功・失敗など、富の流動性が目立ち始めました。こうした流動性は、従来は後進階層といわれ、政府から留保制度により援助を受けてきた人々にも、当てはまりました。チャンスを掴んだ後進階層の人々の中に、富を蓄え、裕福な暮らしをする層が、新たに現れたのです。

そうした流動性をみた上位カーストの人々は、自身の地位と逆転する可能性を感じとり、不満をためていったといいます。

留保制度のスタート当初、留保枠の適用には、後進階層の人々へ、資格や試験を課すものが多く、その難易度も極めて高かったため、なかなか用意された枠が使われることがない状況でした。そのため、1970年代以降、徐々にそうした条件が、全インドでされていくことになります。

こうした社会制度の改善により、上位カーストたちは、独占的に占有してきた枠の中に、下層カーストの枠を確保されることで、自身の枠を奪われることに繋がると、不満を強めることに繋がりました。

この留保制度改善の一環として、1981年にグジャラート州で導入されたのが、大学院の医学コースの留保枠です。この留保枠導入に、上位カーストたちは不満を爆発させます。反発した上位カーストたちは、アーメダバードにおいて、広範囲で後進カースト(主に不可触民)を狙い、暴動が起きてしまいました。

これにより、50人以上の後進カーストが、殺されたといいます。

これ以降、後進カーストを狙った暴力は、散発していくこととなります。

2.1985年の暴動

1985年1月、後進階層に対する、留保制度を緩和することが、発表されました。従来は10%であった留保枠が、18%まで引き上げられるというものです。

後進階層への優遇措置は、上位カーストらからの反発を招くことは理解していましたが、当時、政権を握っていた会議派は、貧困層対策として実行を決めます。そしてこの政策が、この年の暴動のきっかけとなりました。

当初、この留保制度の緩和への抗議行動は、上位カーストの学生主体のデモとして、2月に始まりました。はじめは学生らしく、すべての試験のボイコットというところから始まりましたが、すぐに暴力的な行動が現れ始めます。この時の学生に、暴力を扇動していたのが、当時野党であったBJPの指導者たちで、かれらは1981年に、下層カースト50人以上殺されたとされる暴動の支持も掲げています。

BJPは、ヒンドゥー至上主義団体RSSを支持母体としているため、「ヒンドゥー社会の秩序」を乱すことへ、猛烈に反発する人々が多いといわれています。

以下、2~8月の間に起きた、暴動の流れをみてみましょう。

デモ隊の要求は、留保制度の改定の廃止です。

①2月末~、乗客の乗ったバスに火がつけられ、死者を出すなど暴動の激化

②4月、当初沈静化していた暴力行為は、中旬以降に活発・過激化

  • → 混乱を収めるため、軍を派遣、夜間外出禁止令の発令
  • → 警察による、治安維持活動の強化により、敵意が警察に集まり、警官が殺害される
  • → 怒った警官たちは、以前に警官の批判的記事を書いた新聞社を襲撃
  • → 警官とデモ隊が合流し、多くのムスリムを襲い、17人が殺され、数百の家屋が燃やされ、数千人が避難を余儀なくされた

③5~6月、警察の副監察官の殺害が起こると、ムスリムがやったとの噂が広まる

④7-8月、暴動は治まらずデモ隊は留保制度改定の撤回と、州政府退陣を要求

  • → 議会内でも大荒れとなり、中央政府が調査団を派遣、州首相は辞任へ
  • → 留保制度改定の撤回
  • → 7月下旬まで、死者を伴う暴動は継続しましたが、8月に入り、夜間外出禁止令は取り消され、一連の暴動は落ち着きをみせることになります

当初は、穏健的な学生らしいデモであったといいますが、ここでもBJP指導者の扇動により、暴動へと発展、過激化するきっかけを作っています。

4月に入り、警察が暴動へと参加をしてしまいますが、自分たちへの批判的記事を書いた新聞社やムスリムを襲い始めるなど、理解ができません。

軍の出動にまで至った、一連の混乱の中、中央政府の介入により、州は留保制度改定の撤回と、州首相の辞任へと繋がり、やっと落ち着きを取り戻しました。

3.暴動の余波

この暴動による死者は220人に上り、多くの人々が暴行の被害にあっています。

ただ、当初は上位カーストと後進カーストの、留保制度を巡る対立から、暴動が始まったにもかかわらず、一番の被害を受けたのはムスリム・コミュニティでした。ムスリムの死者は100人となり、2500軒の家が焼かれ、12000人が家を失っています。

なぜ、ムスリムがターゲットとなったのでしょうか。

今回の暴動の構図は、上位カーストと後進階層の間の衝突(下層階層の被害が甚大)です。上位カーストにとり、ムスリムも含めた下層階層が、留保制度の枠拡大によって、自身らが享受してきた権利が奪われると考えたようです。

当初は、同じヒンドゥー内の下層カーストが、メインターゲットでしたが、次第にムスリムもターゲットとなり、最終的には一番の被害を出すことになりました。これは、1969年にこの地で起きた、ヒンドゥーとムスリムの衝突の記憶がまだ残っている人が多く、憎しみがムスリムへと向いてしまったためなのでしょう。酷い話です。

この暴動の結果、多くのムスリムが家を追われ、というムスリムのスラムに逃げ込みました。

ジュハプラは元来、数千人の居住者から始まった小さなスラムでしたが、1969年、1985年の暴動を経て、避難したムスリムの流入により、一気に人口が急増することになっています。

4.1985年のアーメダバードの暴動のまとめ

1985年の暴動では、ムスリムは完全なとばっちりのように思えます。

当初は、後進階層(主に不可触民)にむけた留保制度を巡る対立から始めりましたが、気が付いたら警察も一緒になってムスリムを襲った、というのが理解不能です。

アーメダバード、怖いです。

次回の記事では、2002年に、再びアーメダバードで起きた暴動を取り上げてみたいと思います。


会議派は独立後ずっと政権与党だった政党で、BJPは90年代以降勢力を伸ばして、現政権与党になった政党で、BJPとはだいたい対立関係にあります。会議派の特徴は「民主社会主義」などといわれる、社会主義的経済政策です。

BJPはヒンドゥー至上主義政党といわれており、暴動などの扇動をよくしています。

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緊急ブレーキをかけることで電車を止め、そこを2000人余りのムスリムが襲ったといいます。
この暴動を機に、アーメダバードのヒンドゥーとムスリムの間の分断は、一気に進みました。