1969年のアーメダバードの暴動

1969年のアーメダバードの暴動

今回はアーメダバードの、ヒンドゥー・コミュニティとムスリム・コミュニティの社会分断が一気に進むことになった、1969年に起きた暴動を紹介します。

英語では、1969 Gujarat Riotsとなっていますが、便宜的に、アーメダバードで起きた暴動が中心なので、「アーメダバードの暴動」とさせてもらいました。この暴動は、新たに生まれたによる、社会への不満をきっかけに、大きく発展した暴動といえます。

1.アーメダバード州の社会背景

1960年代以前、この地域のヒンドゥーとムスリムの関係は、比較的良好で、大きな衝突もなく、安定した関係を築いてきました。しかし、そうした関係が、1960年代に入って、崩れていくことになります。

アーメダバードの社会不満は、失業者の急増とともに、急激に高まってしまいます。

失業者の急増の要因は、以下のとおりです。

  1. アーメダバード外部からの、急激な労働者の流入
  2. 繊維職人としての、ムスリムの人気
  3. 1960年代半ば、7つの大規模工場がスラトへと移転

アーメダバードの急激な工業化に伴い、アーメダバード周辺・遠方で暮らす多くの人々が、仕事を求め、流入することになりました。1961年から1971年の間に、都市人口は38%も増加しています。そうした人々は、低賃金で働く人も多かったため、元来、アーメダバードで働いていた人々の仕事が、奪われることになったのです。

また、アーメダバードの経済の特徴としては、盛んな繊維産業が挙げられます。当時、アーメダバードに流入してきたムスリムは、繊維職人として優秀であるという噂が広まり、ムスリムの繊維職人の人気も、相当なものであったといいます。仕事を失ったヒンドゥーの多くは、外部から来た「ムスリムに仕事を奪われた」と、不満を募らせていくことになります。

また、港湾都市スラトへの工場移転による、大量の失業者が約1.7万人も発生し、地域の社会問題の1つとなっています。

さまざまな要因で仕事を失った人々は、従来の暮らしの維持ができずに、貧困層となり、スラム街へと追いやられ、その劣悪な社会環境故に、不満のはけ口が必要となったのでしょう。

こうした社会の中で、ヒンドゥーとムスリムの対立が、顕在化してしまいました。

2.暴動直前のアーメダバード

こうした社会への不満が重なる中、ヒンドゥー至上主義団体のRSS(民族義勇団、現国政与党BJPの母体)が、ヒンドゥー市民から支持を集めます。

RSS指導者たちは、人々の不満・不安を煽り、ムスリムへのヘイトを高めていきました。これに伴い、ムスリムに向かっての暴言や暴力行為が、増えていったといいます。

ムスリムの方も、黙ってはいませんでした。

ムスリム側も集会を開き、ヒンドゥーを挑発するような言動が繰り返されていき、互いが互いを罵り合い、暴力をともなう衝突も起き、社会の分断は修正がきかない状況へとなっていきます。

3.1969年の暴動

1969年9月、偶発的な出来事がきっかけとなり、大きな暴動へと繋がってしまいます。

発端は、イスラムの聖人ウルスを祝う祭りが行われていたところ、ヒンドゥーの修行僧サドゥーが連れていたによって、ムスリム女性が怪我をしてしまったことです。従来から不満が溜まっていたムスリムは、これに激高し、サドゥーを攻撃し、サドゥーの属する寺院の窓などを壊してしまいます。

ムスリムの代表者が、ヒンドゥー側にこれを謝罪したことで、一旦は終わったかのように見えました。が、イスラムのモスクが、ヒンドゥーにより襲撃されたことで、一気に火が燃え広がりました。

怒ったムスリムたち2500~3000人が、地域のヒンドゥー寺院を破壊し、放火や殺人を行ってまわったというが、ヒンドゥー・コミュニティの間に急速に広まりました。ムスリムにヒンドゥーが襲われるという恐怖を、多くの人が感じたといいます。

この噂を信じたヒンドゥーたちは、ムスリムを襲い始めます。

10月上旬まで続いた、この一連の暴動・衝突により、合計660人(430人がムスリム)が死亡し、6000戸が放火などによる被害を受けたといいます。なお、2000人以上が死んだとする調査も上がっています。

当初は、ヒンドゥーの被害が大きいとの噂がたちましたが、結果、ムスリムの被害が甚大となっていたようです。

4.暴動の影響

この一連の暴動・衝突により、ムスリム・コミュニティとヒンドゥー・コミュニティの分断は、一気に進みました。多くのムスリムが、ヒンドゥーに対し恐怖感をもち、ヒンドゥー・コミュニティの中で生活を続けることを諦めたといいます。

そうした諦めが、アーメダバードの中にあったムスリムのスラム地区、に、大量のムスリムの避難・流入を引き起こすことになりました。

その後も続いた衝突の結果、このジュハプラの当初は数千人であった人口は、現在50万人を超えているといいます。

5.1969年のアーメダバードの暴動のまとめ

今回紹介した暴動は、独立後のアーメダバードで起きた、最初の大きな暴動でした。この暴動を機に、アーメダバードのヒンドゥーとムスリムの間の分断は、一気に進みました。

次の記事では、この後1985年に、再びアーメダバードで起きた暴動を紹介します。1985年の暴動でも、再びムスリムが最大の被害を受けることになります。

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ムスリムの死者は100人となり、2500軒の家が焼かれ、12000人が家を失っています。
遺灰を砂浜に埋めるというのは、世界的にみても、あまり聞かない慣習なのではないでしょうか。